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2007年09月02日(日)
2343, ポスト・モダン主義とは
(o゚▽゚)o オハョ〜 ゴザマス!
最近は、あまり以前のような大物?が、居なくなった。 これは時代の変遷のためである。
高度成長期の、田中角栄とか、小佐野賢二とか、堤義明とかいうのは、存在しえなくなったのである。
存在したところで、「それが何じゃい!」と誰も仰ぎ見たりはしない時代になったのである。
解りやすい事例として、イチローが大リーグで超一流の選手として認められたところで、
「ああ、そういう人がいる、凄いな~」で、それはそれはご立派なことで!と、
頭に過ぎってお終い。それより、それぞれが自分の好きなことを見つけ、
それぞれの楽しみを求める時代になったのである。それは考えてみれば当たり前。
それだけ、社会が成熟したということだ。第二次大戦後、マッカーサーが日本を占領したとき言ったのが、
「日本人は10歳の子供」である。欧州から見れば、そんなものかも知れない。
といって、西欧が未開の原始人より文化が進んでいるということではない。
モダン=大きな成功とやらを求めた時代は終わったのである。これを解りやすく書いたある本があった。
『世界をよくする現代思想入門』高田明典著である。 情報化社会は、ポスト・モダン主義をますます加速させる。
日本は、いや世界は、9・11が現象として大転換期と日となる。その意味で、あの男ービンラディンは歴史に残る。
アメリカ現大統領は、「アメリカの凡庸・親子大統領の息子」として歴史に留める。
私が生きた戦後のアメリカ大統領では、その意味ではカーターと肩を並べる??の人物。 その程度ということだ。
この本の一部を抜粋してみるー P-158
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20世紀を特徴づける概念として「大きな物語」があります。
私だちの社会は、二十世紀前半(モダン)の社会において、
「大きな物語」を信じて突き進んできました。
その大きな物語とは
・「理性・知性によって社会は必ず理想郷へと近づいていく」、
・「科学は、私たちを幸福にしてくれる」というものであり、
・「勉強すれば社会的に成功して幸福になれる」であり、
・「お金持ちになることが、人間の幸せである」などなどの「物語」であった。
二十世紀前半においては、多くの人たちがそれを「信じて」いたが、
一九七〇年代以降、そのような「大きな物語」を信じられなくなるような出来事が
多く発生し、私たちの心の中に「不信」が発生しました。
科学は私たちの社会を「幸福にする」どころか、むしろ「不幸にする」ものでもある。
知性や理性によっては「理想郷の実現」はできそうもない、ということです。
そのような状態を「ポスト・モダニティ(ポストモダン状況)」と呼ぴます。
そのような「大きな物語への不信」の中で、芸術表現はいったい「何ができるのか」ということを考えたのが、
ポスト・モダニズムのそもそもの端緒でした。 なぜなら、それまでの「表現制作物」の多くは、
「その社会や文化が信じている価値の表現を行う」ということを、その駆動原理としててきたという側面があるからです。
「大きな物語」が崩壊した今、「何を表現すればいいというのでしょう。
もちろん、「次の時代を担うような価値観の提示」さえ、忌避されます。
もはやそのような「大きな価値」「支配的な価値」さえ信じられなくなっているのが、現代の私たちです。
この二十世紀末から二十一世紀にかけての表現分野は、すでに「ポスト・モダニズム」のような様相を呈しています。
9・11のそもそもの「原因」は、アメリカの物語とアラブの物語の「衝突」に存在していると
考えることもできるでしょう。「物語の衝突」を回避するための「具体的解決方法」が、ポスト・モダニズムである
ということを考えるならば、建築の建築家であるリベスキンドがコンペに勝ったのは、「当然」と言えるのかもしれませんし、
ことによると「歴史の皮肉」なのかも知れません。 それも「大多数が信じていること」とは言えません。
この世界は、「よい」もののか「悪い」のか、もしくは「よい方向に向っているのか」
「破滅へと向っているのか」ということについてさえ、大方の合意が得られないという状況を
「ポストモダニティ(ボストモダン状況ごと呼ぴます。 端的に言うならば、「幸福とは何か」「よいとは何か」についての、
「共通の土台」を想定することができなくなった状態のことです。
そのような状況の中でも、人は、個別に物語を作り、その物語を生きていかなくてはなりません。それは、
とてもたいへんな作業であり、多くの人間が、その作業に困難を感じ、ある者たちは「物語の構築」
を諦めてしまったりしています。
ポストモダニズムの表現制作物を、ここでは「ポストモダンX」と呼ぶことにします。
ポストモダン文学とか、ポストモダンアートとか、ポストモダンミュージックとか、ポストモダン建築が、
それに該当します。 それらの「ポストモダンX」が提出される「目的」は、一致しています。
その使用者・鑑賞者・受信者の内部に、「物語」を発生させることです。
もちろんその「物語」は、予定調和的にあらかじめ想定されている筋を持つものではなく、「個人が、自分で紡ぐ物語」
でなくてはなりません。したがって、「ポストモダンX」は、「物語の強制」をひどく嫌います。
「表面」をくすぐったり、ひっかいたり、ねったりすることによって、鑑賞者(受信者)に何らかの刺激をあたえ、
それをきっかけとして「鑑賞者が自分の物語を構築するア一と」を期待するというわけです。
ポストモダンXは、大きく二段階の変遷を遂げています。
初期においては「内在する疑問形」でした。それはたとえば、「人が生きるとは何であるか」とか「美とは何であるか」
とか「人生の価値とは何であるか」とかという疑問を「投げかける」という形式をとっていました。
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面白い時代である。ただし、それぞれが自分で考え、決断しなければならない厳しさを要求されるのである。
それぞれが自由を見出し、そこに価値=意味をつくらなければならない。
(○´ω`○)ノ**SeeYou Again! dato
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