2004年07月30日(金)
1214,パスカル(3)−哲学についてー24
  ー「賭けの断章」ー

「賭けの断章」は『パンセ』の中でも最も有名な断章の一つである。
神の存在と信じる方に賭けることの有利さを確率的議論から説得しようとするものである。

「神は存在するか、しないか。どちらに賭ける? 」
すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。
賭けないということ自体が、結果的に一つの選択になる。
賭ける対象は、「自分の人生そのもの」であるから大きな命題だ。
 
・神が存在するという方に賭けて、勝てば永遠の生命と無限に続く喜びを得て、人生は意味あるものとなるが、
 賭けに負けても、失うのものは何もない。
・反対に、神は存在しないという方に賭た場合、たとえ賭けに勝っても、
 儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすことになるから、得るものは何もない。
 
 逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。
 如何みても神の存在を認めるほうが有利であると言いたかったのだ。

 37年前、『パンセ』のこの断章を読んだとき、ナルホドと納得をした。
といって、今さらキリスト教関係のクラブに入るには遅かった?
せっかくミッション系の大学だったのに惜しいことをしたと悔いが残った。
理性で納得し、心情が同意するためには時間がかかる。
そのためには人との出会いと時間が必要であった。

しかし、今から考えてみて、自分は仏教の方が向いているが。
 
ー以下はパンセの中の断片集の抜粋である。

・人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。
 むしろ同時に二つの極端に達し、その中間を全て満たすことによって、
 それを示すものである。 
・人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。 
  自分自身においても、また他人に対しても
・もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。
 人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい。
・人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。
・人間相互の尊敬を結ぶ綱は、一般的に必要から生じたものである。
 というのは、全ての人間が支配者になりたがるが、
 みながそれになるわけにはいかないし、種種の階級が存在せねばならないのだから。
・悲しみは知識である。多く知る者は恐ろしき真実を深く嘆かざるをえない。
 知識の木は生命の木ではない。 

・好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。
 たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。
・人からよく言われたいと思ったら、自分のよいところをあまり並べ立てないことである。
・この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる。
・人間は考えるために生まれている。ゆえに人間は、ひとときも考えないではいられない。
・ひとつの事柄についてすべてを知るより、すべての事柄について何らかのことを知るほうが、ずっとよい。
・我々は現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、
 それはただ未来を処理するために、そこから光をえようとするに過ぎない。
 現在は決して我々の目的ではない。過去と現在は我々の手段であって、未来のみが目的である。
・習慣は第二の自然だといわれているが、人は、自然が第一の習慣だということを知らない。
・誤った法律を改正する法律くらい誤ったものはない。法律は正義であるがゆえに従うといって服従している者は、
 自分の想像する正義に服従しているのであって、法律の本質に服従しているのではない
・偉人が我々より偉いのは頭が少しばかり高くでているだけのことで、足のほうが我々と同じくらい低いところにある
・実物には一向に感心しないくせに、それが絵になると、似ていると言って感心する。絵とはなんとむなしいものだろう。
 
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