知人の墓に、亡くなってから隔月にお参りをしている。
たまたま、散歩をする土手の折り返しの近くに墓がある因縁のためだが。
習慣とは面白いものである。両親の墓には年に三度ほどしか参らないのに。

その都度思うことだが、「人生は儚い」ということだ。
必ず、心の中で話しをするが、故人が語りかけてくる言葉は
「生きているうち、こっち(あの世)は、ただ空」そしてダメ押しに「もっと墓参りに来てくれ!」
勝手に沸いてくる言葉でしかないが、それでも何かがあるのだろう。

故人と話しをしながら、思うことが、娑婆のことなど全て儚い夢でしかないということ。
そこで「儚いとは、如何いうことか?」を考えてみると、それは生まれる前の無限の時間と、死んだ後にも続く
無限の時間を、死ぬと覚悟をした時に「あまりに小さな時間」を思い浮かんだ実感である。
だから、「幸福の4F克服できない苦難と悲しみ」というのも、言い得ている。
故人から学ぶことは、そのことである。 達成した幸福の喜びなど、酒を飲んで盛り上がれば、出来ること。
そこには、生きているうちに感じる儚さしかない。しかし、それを言えるのは達成をした経験のある人間しかない。
それも、これも、如何でもいいことだが! 

儚いというのは、「わたしの儚さ」である。「わたし」という有限の自分の、小ささをシミジミ知ることである。
その小ささの一番の意味は時間の小ささである。それも、他人と比べるのではなく、生前、生後にある
何処までも広がる時間に対してである。自分を取り巻く永遠の広がりの時間である。
そう感じる「わたし」は、実は過ぎ去った時間を振り返った時に「これ」から「わたし」になった言葉。
そうすると、「わたしの人生は儚い」は、その言葉に縛られた感情でしかないということになる。
人生を振りかえって長かったような、一瞬だったような気がするが、それは現在、そう思っている「わたし」の
言葉ということだ。 一年前の日記に「わたしの人生は儚い」と書いてあったのを読み返したとして、
あの日に、そう思っていた「わたし」がいた、というだけのこと。
知人の墓参りに感じる「儚い」は、故人からの教訓で、実は直面するだろう自分の死に対する、
予行演習を勝手にしているということでしかない。
自分の心が、都合のよいことしか考えていない、解りやすい事例だ。
 まあ、そういうこと! みも蓋もない話になったが。

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