読書について、ある哲学書に、その意味=価値が丁寧に説明してあった。
学生時代に、読書の必要性を感じ取った。そして、卒業まじかになって、その絶対量の少なさに唖然とした。
そこで社会に出てから毎日、最低二時間は読書をすると、自分に誓ったことを憶えている。
高等教育で一般教養を教える目的は、「学校教育が終わった後でも学び続ける人間をつくること」というから、
一応、その成果は少しはあったようだ。 考え、問いかけ、答えを自分で得る方向に努力する素養である。

以下は、哲学講義書「考える快楽ーグレイリング先生の哲学講義」
 の《読書》についての中の一節である。
 −P−251
《読書》*一冊の本を読むことから、いったい何度、人は新たな人生を歩みはじめたことだろう

・・・読者は多少経験をつめば、読書を通じて、歴史、喜劇、悲劇といった多様な人間の経験を、
あたかも飛翔するワシのように俯瞰することができる、偉大な国へと進むようになる。 そして、
読書に意識を集中できるようになれば、差しだされた豊潤な世界から多くを得ることができるのだ。
読書の鍵は、集中という言葉にある。 どんな教育であれ、後世に遺すことができる最善のものは、
熟考と疑問をもつ習慣だ。 読書は受け身の行為になりうるし、一時の気晴らしに過ぎない娯楽になる場合もある。  
たしかに多くの本は、読者がそれ以上のものを必要としないくらいにたっぷりと技巧をこらして書かれているし、
べつにそのことが悪いわけではない。 しかし、それ以上のものを求めようとすれば、読書は受け身ではなく、
能動的な行動にならねばならない。 よい本をよい本たらしめているものを定義する、とはむずかしい。
ひとくちによい本といっても、さまざまな種類があるからだが、その大半に共通するのは、読者に考えさせ、
感じさせ・元気づけ・当惑させ、その結果、本を読んだあとは世界がすこしちがって見えるという点だ。
端的にいえば、そうした本は積極的な読書活動へと人を誘う。 
数冊の本から得られるのは、読書を通して生まれる自分の思考以外にはほとんどない。
そして偉大な書物には多くの思考をうながす余地があるものだ」と、ジョゼフ・ジュベールは言っている。

読書をしたからといって、自動的に前より賢くなったり、よい人間になったりするわけではない。
読書に効果があるとすれば、それは、印刷されたページに反応し、そこから素材を切りだすという仕事を、
読者が自分でやりとげたからだ。 しかし、人生の最高の家庭教師である実体験をべつにすれば、
素材を切りだせる鉱床として、読書に比肩できるものはほとんどない。
本を読むことは、他人の考え方のなかにはいっていくことであり、自分自身の人生ではけっして理解できない
状況にたいして、見えざる観察者になることだ。 個人が経験するであろうことよりも、数のうえでも
種類のうえでもはるかに多様性に富んだ状況や人々と出会うことだ。
その結果、読書は自己理解をうながすだけでなく、他人にとっては大きな関心事だが自分にはない欲求や関心、
欲望にたいする洞察力を身につけ、やがて他人の関心を理解し、寛容になり、ときには共感できるようになる。
こうして他人とどう接するかを決定する際に必要となる知識の量を増やしていくことは、
民共同体と人類の兄弟愛の基盤にもなる。

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  そういえば、読書は旅に似ている。心は全く知らない世界に鳥のように飛び込んでいけるし、
  違う時間の流れに置くことも可能である。

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