あまりサッカーの歴史のない日本人が、欧州や南米のサッカーの盛り上がりに、
  「何故あそこまで熱狂するのか?」戸惑うことが度々ある。
   人種間や、国家間の代理戦争?とは気づいてはいたが、ある本にその辺の事情が詳しく書いてあった。
   巨人阪神戦が盛り上がるのは、関東人対関西人の、特に関西人のコンプレックスのハケグチということか。
   サッカーで韓国が異常に燃えるのも、先進国に対する追いつけ追い越せ精神が拍車をかけている。 
   現在では、世界共通の集団チームプレーとして、代理戦争の様相さえ示している。
   そう思ってみると、またサッカーが面白く見えてくる!
   
 ーーー          (哲学ワンダーランド・貫成人著)より
ある時期以降の世界的サッ力ー熱の背景には、「人間の本質」などという、
ある種崇高とも見えるような事柄には収まりきらない複雑な事情がある。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにはボカ・ジュニアーズリバープレートという
二つのチームがあり、互いにライバルチームだ。 いわゆるダービーマッチ」といわれる
同一フランチャイズのチームだ。・・・・
Jリーグなどでは、かつての横浜マリ・スと横浜プリューゲルスなど、ダービーマッチの対決でも、
その応援は、ほかの試合とそれほど変わらないが、アルゼンチンの場合には異なる。
・ポカ・ジュニアーズはブエノスアイレスの低地、港湾地域のひとびとをサポーターとし、
リバープレートはより高台のブルジョワ階級のチームである。
前者は主として、もともと貧しいイタリア系移民労働者の地域であり、
後者は裕福なイギリス系移民の住むところだ。
両チームの対戦はしたがって、テクニックやスピード、戦術などの優劣を競う単純なスポーツ試合ではない。
それは、同じブエノスアイレスの住人同士でありながら、人種や階級、言語を異にするふたつの
エスニック・グループ同士の「戦い」なのだ。
低地の住人にとってボカ・ジュニアーズの勝利は、常日頃自分たちを見下し、こき使っている富裕層に対して、
自分たち労働者が勝利することであり、高地の人たちの敗戦は革命に等しい。
だからこそ、それぞれのサボーターは、「たかがサッカー試合」なのに、
両チームのプレイのひとつひとつに熱狂するのである。

同じようなことはスコットランド・リーグのセルティックとレンジャーズにも見られ、この場合には、
新教と旧教という宗教的対立、英語とスコットランド語という言語的対立とも連動している。
同じ町のチームというわけでなくても、スペイン、リーガ・エスパニョーラにおけるレアル・マドリード
バルセロナの対戦は、もともと地域ごとの独立性が強かったスペインにおいて、
地方自治を弾圧する国王のチームであるレアル・マドリードと、言語その他において独立性の強い
カタロニア地方のチームであるバルセロナの対戦という意味を持つ。ここにも文化的。政治的対立が潜むのである。
ヨーロッパでも南米でも、それぞれの地域ごとに、
近代化以前からの先住民、近代化=欧米化とともに渡来した住民、
そのかれらが強制的に連れてきた住民といった、それぞれの履歴の落差がある場合、
こうした言語的・人種的・宗教的・階級的・経済的・文化的対立が、各サッカーチームの成立の要因となり、
サッカー試合はエスニック・グループ同士の代理戦争という様相を呈する。

各チームのファン、「サポーター」は、自分が応援するチームのプレイやゴール、勝敗のたびに、
スタジアムやテレビの前で「一体となって」、喜びや怒り、悲しみを共有する。
アメリカ合州国文化人類学者ペネディクト・アンダーソン(一九三六〜)は、
国民国家について「想像の共同体」という言い方をした。
サッカースタジアムの観客は、むしろ「熱狂の共同体」を、しかもきわめてリアルに形成するのである。
Jリーグの場合には、第二次世界大戦後に世界的にも希有な形で国民全体の富や資産の平準化(一億総中流)が
達成された日本で生まれたリーグであるために、欧州や中粟でみられるこうした性格は見られない。
その各チームを「地域に根付いたチームではない」
  ーーー
 それで会場では、熱くなった観客同士が乱闘するのが理解できた。

・・・・・・・・・