2007年03月23日(金)
2180, 14歳の君へ −2 
              オッ(*^○^*) ハ〜ヨウサン!
             ー 読書日記
    ー勉学ー についてが、考えさせられる内容である。
    私自身、この歳になって学ぶことが、飛躍的に?伸びている。
    何ゆえかというと、知った分だけ自分が広がっていく実感と、
    充実感がよいから意欲がわくためである。それと、このHPを持ったことも含め、
    情報環境が飛躍的に良くなったことである。
    
この20年近く秘境・異境に行きつづけて、大自然や異境の文化・文明との出会い、
感動を重ねている感覚に似ている。ツアーと旅とは似て非なるものである。
それぐらい解っている。旅は目的地そのものへの到達と、そのプロセスを味わうもの。
その困難性やハプニングの中にこそ、味わいがある。
ツアーはプロセスを楽しむが、それは企画された範囲である。
企画側のストーリーの中での、危険を最小限度に抑えて楽しむ遊びである。
しかし一つの事例として、北スペイン「パンプローナ牛追い祭り」の二週間のバスツアー。
旅なれない個人の企画の旅より、20人位の人が大型バスを一台借り切った方が、効率が良い上に、
最大限の観光が可能となる。またケニアタンザニアなど個人では危険があまりにも多すぎる。
そこで仲間を集って経費を合理的に使う、これが現在のツアーの価値となっている。

    勉学と少し話が違うようだが、自分の中の知識・見識の蓄積ということでは、
    同じである。 勉学の目的「賢くなるため学ぶ」ことである。
    目的(地)は賢くなることで、良い学校を出て、良い会社に入ることではない。
    良い学校・会社に行けば、賢いやつが多くいるから、賢さの意味や、
    手法・手順が身に付くが、しかし目的(地)ではない。
    そのプロセスこそ重要ということでは、旅の道程を楽しむことに似ている。

ー考えさせられた箇所を抜粋してみるー

ー「14歳の君へ」から
P-60
「勉強ができる」ということと、「賢い」ということは、違うことだとわかるだろうか。
君たちが普通、「あの人は勉強ができる」と言うとき、たいていそれは「成績がいい」
ということだね。だけど、「賢い」というのは、そういうこじゃない。
たとえば、なぜ言葉というのは、そんなふうに活用するものなのか、
なぜ活用することで言葉の意味は変わるのか、そういう問いをもっていることだ。
問いをもって、自分で考えていることだ。あるいはローマ帝国の本を読んだとして、
なぜ帝国は滅んでしまったのだろうか、滅ぶということは人々にとってどういうこと
だったのか、そういう問いをもって、それを自分で考えることだ。
教わったことについて自分で考えることことだ。

君は授業で教わったことを自分で考えたことがありますか。
・・・(中略)自分で考えたことは、決して忘れることがない。
その人の血肉になり、本当の知識になって、その人のものになるのだ。
人が賢くなるということは、こういうことだ。
言葉はなぜ活用するのかを考えるということは、自分がふだん使っている
この言葉について考えることだし、ローマ帝国の崩壊と人々について
考えるということは、同じ人間としての自分の心や行為について考えることだ。
考えるということは、必ず、自分のこととして考えるということだ。
すべて自分に関係のあることとして考えるということなんだ。

P-65
 今の学校の勉強の方法では、学んで知ることの本当の面白さは、
なかなか分らない。だから君は、学校の勉強は学校の勉強として、
自分ひとりで考えることの面白さを追求してゆくのがいいだろう。
本を読むのが一番いい手だ。試験勉強などいくら数をこなしても、
賢くはならないがね。成績を気にしないで、自分の頭で考えよう。

本当に大事なことは、試験や受験の先にこそあるということを、
忘れないでいましょう。人生にとって本当に大事なことは何なのか
ということこそ、自分で考えて知らなければならない問いだ。
「知る」ということが、自分が賢くなって、賢い人生を生きるために知ることで
なければ、知るなんてことに、いったい何の意味があるのだろう。

人類には「学問」という仕事の分野がある。その歴史はとても古くて、
ある意味では「有史」ということ自体がその始まりだといっていい。
人間が動物から分かれて、「知性」」つまり「知る、知ろうとする性質」
を持ったときから、それは始まっていたということだ。
人間は、いつも知りたかったんだ。世界とは何か、宇宙とは何か、
そこで自分が生きて死ぬとはどういうことなのか。

学問をするということは、いつも知りたくて考えてきた人間の知性の営み、
その長い歴史的営みに参加することなのだ。これは魅力的だと思わないか。
過去のどんな立派な人が残した仕事も、自分と同じように知りたかった人間が
していた仕事だと思うと、何だかいとおしく懐かしいような感じになるはずである。

学問よりもスポーツや芸術の方に興味を持つのもよい。自分の好きな道を行くがいい。
でもどの道を行くにしても、それを本当に「知る」ためには、
自分で考えて自分のものにすること、それは同じだとわかるよね。

ーーー
   解) 14歳の子供に説教するのだから、わかりやすく、かつ
    面白くなければならない。それも勉学の必要性を砕いて説かないのだから、
    哲学者の真骨頂になる部分である。
    このような情報化の時代であるからこそ、「知性」が問題になるのである。
    問を持ち、答えを求める姿勢こそ、学問から得る最大の習性である。
    それが知性となり、教養となっていく。

   「知るということは、賢い人生を生きるため」と、言われてみて、
    果たして私の人生は賢い人生だったのだろうか?と、問い直してみると、
    反省すること大である。
    もちろん、私は賢い人生を過ごしてきましたと思ったとしたら、
    間違いなくバカの人生を過ごしてきた!という逆になってしまう。
   「まあ、いいか!こんなものか!」と、独りブツブツ言うしかないか!
    賢いとは、いま思いつく解釈は、「ものごとの本質を、一瞬で読み取る感覚、能力」
   「感動、感激をする能力のある人」である。それと、「主体性のある人」である。
               ¥(*^_^*)\ バイバイ 


 ・・・・・・・・