2005年03月18日(金)
1445, 小学校中退、大学卒業

ある雑誌の中に花柳幻舟の文章が載っていた。
「家元制度に疑問を感じて傷害事件などを何回かおこした問題の多い舞踏家」
という印象がある。が、そのテーマが面白そうなので読んでみた。
その特異の生立ちと、その世界に引き込まれていった。
  その文章の一部を抜粋する。

ー1994年、父は逝ってしまった。
旅芸人として私とともに闘い、極貧の中を生き抜いてきた私の同期であり、
芸の師父は、私を残して、あっさり逝ってしまった。

父が私を残して逝ってしまったあと、私の周りの人たちは、まるで櫛の歯が
抜けるように、一人、また二人と去っていく。
私のどん底の精神状態を百も承知でのトンズラには、私は激怒した。
ガソリンを一杯にしたポリタンクを持ち、深夜の道をたった独り、
それらの人の家の前に立ったこともある。・・・・・・
 
父の死によって、大海の中で羅針盤を失い、自死を本気で考えた。
しかし、なぜ今死ぬのか、自死の理由を自分の中で検証し、
悲壮感や絶望感を、主観的でなく、客観的に、確たる自死の理由をつかみ、
父の元に元気に行きたかった。

大きな模造紙を買ってきて、自死の理由を思うまま書いてみた。
父を失った喪失感、裏切られた絶望感、あれこれ考えていくうちに、
劣等感、疎外感という文字が表れた。私自身思ってもみなかったことだ。
幼いころ、旅回りの先々で学校に行ってもろくろく勉強をしていないため、
テストに遭遇しても全く理解できず0点。
旅役者ということも重なって、疎外され、虐めにあう。
それが「トラウマ」であることがハッキリした。

この「傷」と向き合って、この傷を癒して、元気になって父の元に行こうと
私は決心し、小学校中退でも入れる「放送大学」に入学をした。

入学したといっても、並大抵のことでなかった。
教室から逃げ出したり、深夜飛び起きて、おお泣きしたり、
まさに心の「傷」の後遺症が噴出して、心のバランスを保つのに必死であった。

大學の勉強に少し自信がもてるようになってきたころ、
負けん気の強い私は、どうせやるならと、司法試験にチャレンジするため、
法曹界へ90?の人を送り出しているという有名専門校に入った。

                        つづく
 ーーー
花柳 幻舟(はなやぎ げんしゅう、1941年5月15日 - )は、
 舞踊家、作家、社会運動家フェミニスト。 本名は、川井 洋子。

2歳で舞台に立ち、旅役者の子であることを理由に転校先の学校でいじめに遭う。
18歳で結婚して家父長制の矛盾に直面し、夫から自立するために花柳流(踊り)に入門。

花柳流名取となったが家元制度に疑問を感じ、その根源に天皇制があるとの認識を
持つに至って、家元制度打倒の運動を開始。
花柳流家元(三世)花柳寿輔を襲撃して包丁(*1)で刺し、傷害罪で服役。
天皇即位礼の祝賀パレードで爆竹を投げて道交法違反(路上危険行為)で
罰金の支払いを拒絶し服役。

2004年、放送大学を卒業し、その報告をまとめた『小学校中退、大学卒業』を上梓する。
講演活動などを続けながら舞台への復帰を目指している。

 映画『幻舟』は、
キム・ロンジノット監督が、1989年、共同監督ジャノ・ウィリアムズとともに
撮影したドキュメンタリー映画。幻舟が被写対象になっている。
原題タイトルは、『Eat the Kimono(着物を食え)』。
日本女性を縛る因習を描いた作品である。
拘束衣でもある着物に家父長制の象徴的な意味を込め、
「着物を着て自由を表現したい」
「着物に食われてはいけない、着物を食え
(着物に食われて身動きのとれない女性になってはいけない)」
と作中で語る幻舟の言葉からつけられた。
ロンジノットは黒澤明のファンだったが、映画に登場する日本女性に親しみを持てず、
違和感を感じていたところ、花柳幻舟の記事を読んで興味を持ったことが
撮影のきっかけとなった。
英国のテレビ局・チャンネル4が放映、アセン国際映画祭ではグランプリを獲得した。

1995年、幻舟は放送大学学園に入学、途中、司法試験を目指して勉強した3年間の
ブランクをはさみ、2004年3月に卒業した。
禁固以上の刑を受けた者は弁護士の欠格事由(弁護士法六条の一)となることを知り、
司法試験は断念することになった。卒業論文は、
「メディアの犯罪、その光と影−ある創作舞踊家が逆照射した現代の報道イズム」で、
著書『小学校中退、大学卒業』に掲載されている。

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