2007年03月18日(日)
2175, 14歳の君へ ー読書日記
        (~Q~;)  おはよう〜〜ファ〜
  =「宇宙」について=

「14歳からの哲学」に引き続き、今度は「14歳の君へ」という本を買った。
池田晶子の本は、これで8冊目である。こういうジュニア向きの本は、
解りやすく噛み砕いてあるので、読めば読むほど多くの示唆を受ける。
去年の暮れの発刊なので、亡くなる直近の本である。
この二冊で取りあげてあるテーマは、多くが重なっている。
同じようなテーマのところを開きながら、見比べると切り口が微妙に違っている。
何じことでも新鮮に思えてくるから不思議である。

   「宇宙」について、哲学的に幾ら問いを立てても、その答えは出つくすわけがない。
    しかし、宇宙の存在の不思議は、切り口を変えて考えた分だけ面白い。
   ーその面白そうなところをー
   「14歳の君へ」ー?・君は誰だろう?ー
    の中の『宇宙』についての項目から抜粋してみる。
     
−−P/128
ー「宇宙はいったいどうなっているのか」の問いは、これだけでも充分にとんでもない。
だけど、「どうなっているかわからない宇宙は、どうして存在しているのか」
という問いは、それ以上にとんでもない。
 こういう問いはとんでもない、人間にはどうしようもないと気がついた人間は、
苦し紛れに「神」という答えを思いついた。

宇宙は神が創ったものだから、それが存在しているのも神の意志だとする考えだ。
一般的に、これが宗教というものの始まりだ。そう答える方が、人間は安心する。
 しかし、科学が発達し、科学的知識を身につけた現代人は、こんな答えを到底
信じることはできない。宇宙の何処かにいて、宇宙を創った神様なんて、想像をしたって無理がある。
それなら、ビッグ・バンによって、ある時に突然始まったとする時の方がまだ納得する。
だけどやっぱり納得できないが、この「ある時突然」というやつだ。
 
たとえば、こんなふうに考えてみよう。天体望遠鏡で、百億光年向こうの星の姿を君はみる。
光の到達時間差から計算して、百億年前の星の姿を、今見ていると、科学は説明する。
しかし、考えてみたら百億年前には、君は存在してなかったはずだ。
それなら、自分が存在してない世界を、なぜ現在みることができるのだろう。
これはおかしいことだろう。両親が存在していない前の世界を、生まれていないはずの
君が今みているということなんだから。

こういうおかしなことについて、科学は説明をすることができない。
これは当然だ。科学は、宇宙と自分というものを、あくまでも別物とすることで
成立しているのだからだ。そうでなくては、それを対象として観察、実験できない
からだ。しかし、なお良く考えてみれば、自分と宇宙を別物にすることなんか、
できるわけがない。宇宙を客観的に観察しているつもりの自分が、
まさにその宇宙の中にいるのだから。

宇宙を知りたい、宇宙とは何かを考えたいと願う君は、本当は、
それを考えている自分とは何かをこそ、考えなければならないんだ。
「自分とは何か」、これはその意味で、宇宙の不思議に匹敵する問いなんだ。
百億年前の宇宙を今見ている自分は、百億年前にも存在していなければおかしいよ。
そう考えれば、「ある時突然」ビッグバンから宇宙の時間は始まったとする、
科学的の観念も、実はおかしなものだと気がつくだろう。
だいいち、「ある日突然」なんて瞬間を、いったい誰が見ていたと言うんだい。
そう、見ていたのは、ひょっとしたら、君だ。君というのは、ひょっとしたら、
宗教が信じている以上に神みたいなものかもしれないよ。
それなら、そういう君は、なんだって存在しているのだろう。

   ーー
   哲学的な問い、というと難しそうな話だが、子供心に帰って、
   「宇宙の果てはあるのだろうか?」「宇宙を思っている、『これ』とは何だろうか?」
   「死ぬのはいやだ。死んだらどうなるのだろうか?」「神様は存在しているか?」
   「自分の一生はどうなるのだろうか?どうしていきるべきなのだろうか?」
   という純朴の思いの問でしかない。
   その答えを求めて生きるのが、その人の人生である。
   もちろん、自己満足の場面もあるだろうし、根こそぎ後悔する場面もあるだろう。
   その時、自分の人生を題材として考えるとき哲学の一端に触れていることになる。
「まあ、こんなものだったのか!」と独り「これ」が呟いて、
   ある時にプッツン! 
             (⌒▽⌒)/"”さいなら! 
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