ぉl£ょうヽ【・ω・】ノ
           佐古純一郎著 「無くてはならぬもの」

二十代半ばに挫折感に陥り、魂が放浪していた時に貪るように読んだ本を
38年ぶりに手に取ったみた。
そして、その内容が現在でも自分の心の底に焼きついていることに驚いている。
著者はプロテスタントの牧師で、キリスト教の教えが底に流れているが、
人生を如何に生きるべきかを理路整然と書いてある。
現在読んでも、そのまま通ずる内容である。
次回から、それぞれの章ごとに印象的なところを書き出しながら、
昔に舞い戻ってみたい。
 
 まずは当時、傍線をひいてある箇所をうつしてみる。
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P−19
近代の思想は、ほとんど独白という姿勢からなされてきた。
ようするにひとり言である。みんながめいめいに、自分勝手にひとり言をいっている。
そこでは、本当の意味で、交わりの生活を作り出さなければならない。
独白は創造しない。対話の中からのみ創造ということがはじまるのである。
対話とは何か。それは、人格と人格との出会いの姿である。
人格と人格との出会いのないところに、対話の成り立ちようがないのである。
自己を主張する前に、他者の言葉に耳を傾けることである。
私たちの生活では、家庭においても、職場においても、あまりにも、
対話の生活がなさすぎるのではないか。
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P−23
サマーセット・モームのような人生をおもしろおかしく生きる道を選ぶか、
意味のない現実をつくりかえて、人生の意味を創造していく道を選ぶか、
人生には二つの生き方がある。あなたはどちらの人生を選ぶのであろうか。
私は、意味の創造に自分のまずしい人生を捧げていきたいと思う。
意味のない人生に意味を創造していくことこそ、私にとって生きることの
意味だとはっきり自分に向かって言いきかせたいと思うのである。
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P−112
私は人格としてつくられている。それが、人間の条件の最も大切な要素なのである。
私の人生は私のほかには誰も代わって生きることは不可能なのである。
だからこそ私はひとりなのである。孤独な存在なのである。
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P−196
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世界に何億という人がいようともこの「私」はたったひとりしかいないのであり、
それは絶対に誰かに代わってもらうことはできない、つまり「私」という人間に、
代用品はきかないのだ、ということなのである。私はあなたくらいのとき、
思わず厳粛な気持ちになったことがある。人間の尊厳とか個人の尊さということは、
そこから出てくることなのである。・・・・人生は二度と繰返すことのできない
一度きりの人生なのだ。そのことが、ほんとうにわかっていないと、
人生をどう生きるか、という問題は、真実に考えていくことができないのである。
 ーー
P−212
愛の愚かさとは、誰もみていない、誰も知ってくれるわけでないけれど、
静かに、誰かのために自分を捨てていく、そんな態度のことだといえよう。
自分が他人からされて悲しいこと、つらいこと、迷惑なことは、他人に向かって
してはならないのだ、と聖書も教えてくれる。自分が大切なように、人さまも
大切なのである。
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 何か、当時の自分に出会っているようで、奇妙な感覚になる。
    自分は自分である! そして、自分でしかない!
                       ホナ (■*U∀u)ノ
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