2468, サブプライムとは何か −1

   (゚Д゚*)ノ⌒【おはよう】

         『サブプライム問題とは何か』春山昇華著
                             宝島社
サプライム問題はアメリカの覇権主義の正体そのもの!である。その実態は、
日本がこの十数年の間に犠牲になったムーディーなどの「格付け機関」という
怪しげな格付けというマジックを使った債権詐欺?だった。
まだ、あの格付け機関を日本の一部マスコミでも信じているようだが。
このマジックで、日本の企業はアメリカに買いたたかれたのである。
日本企業を買い叩くために「格付け機関」を作ったともいわれている。

去年の末から、サブプライム問題が問題になり、
週刊誌や月刊誌に大きく取上げられた際に、この随想日記にも取上げた。
先日、知人からこの本を借りて読んだところ、より深く問題を掘り下げていた。
TVで解説しているほど、実態は甘くないようだ。
ここで、そもそもサブプライムとはどんなローンなのか、その融資を受ける
「信用力の低い個人」とはどんな人たちか、彼らにローンを組ませるために
どんな金融業者が暗躍したかが生々しく書かれている。

その露払いが、さきほどの「格付け機関」である。
屑のような債権を、格付けAやトリプルAを付けて世界中にばら撒いたのである。
プエルトリコや、黒人などの所得が低かったり、過去に住宅ローンの返済が滞ったことが
あるという理由で、一般の住宅ローン(プライムローン)を借りることができない
人向けの融資を金融機関は積極的に債権化をしたのである。
一般のローンより金利が高いが、初2年間だけは返済額が小さく抑えるなどの特徴があり、
低所得者に広がっていった。 この背景は住宅価格つまり担保価値が上昇し続けることが
前提になっている。しかし信用不安などで値下がりが始ると雪崩をうって崩壊を始った
のである。

 この中では、住宅価格上昇の絶頂期だった2005年ごろに登場した
忍者をもじった「NINJA(ニンジャ)ローン」を取上げている。
ここまで来ると芸術的犯罪に近くなる。
NINJAとはノー・インカム、ノー・ジョブ・アンド・アセットの略で、
所得がなく、仕事も資産もなくても借りられるというものだ。
このローンの背景には住宅価格が上昇すれば、担保余力が生まれるため、
自動車ローンや消費ローンなども組みやすくなる。
とりあえずローンを借りたい人たちにとって、これほど良いチャンスはない!
まず家を持ち、自動車や家電製品を買いまくっていた。

債権の買い手さえが、自分がどこまで被害にあっているか解からないところが、
問題の深刻さを現している。 この実態を知れば知るほど深刻である。
もともと、アメリカが国家単位でしていることを、民間レベルに切り替わっただけと
言えるところが皮肉である。
これをキッカケにアメリカ国債やドルに対しても不信感が重なる。
その意味で、今年はこの問題は大きな波乱要素になることは必定である。
                ヾ(●゜障モ゜)ノ バイ!
              
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2007年01月06日(土)
2104, 勘違い!
  オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!

先日のモーニングショーで、TVで勝ち組?の六本木ヒルのマンションに入居の社長と、
月十万円を稼ぐのに必死の三万円のアパートに入っている漫画本講談師との、
二人の年末の日常を、同じ時間軸を対比しながら映し出していた。
共通点は、20歳代後半と、フリーター出身である。

    私の目からみれば月十万円の漫画講談師のほうが遥かに良い一日を過ごしている。
    それが画面にはっきりと映し出されている。
    地に足をしっかりつけて一日を過ごしているのはどちらか歴然としている。
    しかしディレクターの素材の問題だろうか、それとも実際は、私の指摘した
    隠れ真実を?ディレクターは言いたかったのだろうか。

モダン主義と、ポストモダン主義の問題そのものである。
誰もが認めるような大きな成功物語を良しとするか、それとも、
自分がしたいことを傍の目をものともせず生きる物語を良しとするか。
コミックなのは、成金の方が一時代前の価値観で生きていることだ。
だから漫画講談師と対比させたのだろうか?いや違うだろう。

    何が六本木ヒルか笑ってしまう。あれが何だっていうのだろう。
    気の毒な連中の収容所でしかないと思うのも私だけだろうか。
    満足感の問題だから敢えていうこともないが、ただ単純に、こちらは良い、
    あちらは悪い、と決め付けることに問題がある。
    たまに泊まる分にはよいが何じゃありゃ!でしかない。これは私の立場。
    村上某とか、ライブドアの某とかいうパンダが、証明したではないか。
    
自宅から歩いて数分の所の土手の彼方此方に鴨がいて、セキレイが飛び交っている。
どっちが素晴らしいというのだろうか。
そんなこと決まっているじゃないか、というのは年齢のためか。
下の息子も一昨日鉄骨ジャングルに帰っていった。
嬉しそうなところが、痛々しいが・・
彼の方は、小さな世界に安住している地方の両親!と位にしか、
見えないから、それは年齢と適正の違いもあるが・・・

    話が逸れたが、漫画本講談師の男、毎日がスリルとサスペンスだろうが、
    決して楽しそうでないのが気になったが・・・

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2006年01月06日(金)
1739, 人生の自己採点
   ま! (。・・)_且~~ お茶どうぞ
            オットッ! 且_(゚◇゚;)ノ゙ アチッ!
 私の何気なくする質問が時々キツイことをいう。
 その中でも特に顔色を変える質問がある
 「これまで生きてきて、自分の点数をつけるとしたら何点?」
                   )))))))(゚o゚;)/ギク!
   思わない質問に、自己評価をどうしてよいのか一瞬たじろぐ。
    おそらく、その後かなり悩むのではないだろうか。
     それも次の言葉を加えるから厳しい。
 「一応、あなたが考える第三者の評価も含めて勘でよいから
  感覚的な数字をあげてみて」 と、一瞬の間を置く。(;゜0゜) ハッ
  大体、70点以上の人は直ぐに答えるが、それ以下の数字を頭に描いた人は黙る。
     
   この答えをはぐらかすには、
 「合格点が60なら、その辺かな?いや努力をしたので70点あたりか。
 しかし他人は50点以下と評価するだろうな!」
 知、力、愛の三分類をして、それぞれの点数を自己評価して、
  その平均値を出してみると解りやすい。
 「そんなことなど、お前の一番嫌う世間体の視点でしかないだろう!
     馬鹿なことを言うな!」という心の奥の声が響いてくるが!
 私の義兄の弟(長岡高校の同期)に数年前に遇ったとき聞いたら
  「93点!」と答えた。   ヽ(・_・;)ノ ドッヒャー!
   松下電器でかなり出世をしたという。そのとき私の答えは
    「83点」であった。   ノ(*≧∀≦*)ヘ
     少し無理をしたか?     モジ(((*´ε` *)(* ´З`*)))モジ

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2005年01月06日(木)
1374, キュープラ・ロスー2

ロスに関して、もう少し詳しく書いてみる。
ターミナルケア(終末期医療)のテーマにおいて最も愛され、
尊敬される第一人者の存在である。
若き日の勤務していたニューヨークの病院での瀕死の患者の扱いに彼女は愕然とした。
〈彼らは避けられ、粗末にされ、だれも彼らに正直に接していなかった〉
彼女は他の同僚達とは違い、いつも末期の患者と供にいて、彼らの心の声を聴いていた。

そして彼女は「自らの経験を語る瀕死の患者についての講義」を始めた。
1969年の最初の本「死ぬ瞬間」はキュブラー・ロス博士を世界的に有名にした。
〈私の当時の目標は、患者が心の奥深くの悩みを訴えることを禁じる
 専門家の拒否の姿勢をうち破ることだった〉と書かれている。

このテーマについて何年間も満席の聴衆に向かって話をし、20冊以上の本を書き、
25カ国語以上に翻訳され、また彼女は20を越える名誉博士号を受けている。

1995年に彼女はひどい発作におそわれた。麻痺が残り彼女自身死と向き合うこととなった。
容態が安定したとはいえ、彼女は発作から完全には回復していない。
〈私はゲートを出たのに離陸できなかった飛行機のようなものです。
ゲートに戻るか、そうでなければ逃げ去ってしまいたい〉と正直に自分を語っている。

「世界中の人に愛を与えた聖女」の実像は、家族をおきざりにして、
世界中の人々に愛を与えて歩きあげくの果てに、霊媒師に引っかかり、
結局は一番最愛の人(夫)を失ったともいえる。
その晩年は孤独で淋しい老女だったことは間違いない事実。

世界中の死に直面をした人を救った彼女は、自分の愛する人を救えなかった。
皮肉といえば皮肉である。しかし、その矛盾した姿こそ、彼女の偉大の姿でもある。
「死の瞬間」の出版から、世界中の注目を集めた独りの女性は、
その晩年の姿は決して幸福ではなかった。
先日のテレビの映像はその姿を生々しく映し出していた。

世界的地位や名声と引き換えに、一番大事な「家族との時間」を失った彼女の姿は
聖女といえば聖女であろう。彼女の晩年に書いた「ライフ・レッスン」という著書も、
なかなかの内容だ。全てが人生におけるレッスンと思って生きていけば、
全てを受容することが可能になるからだ。

若いときに鬱々としていた時、ふと「全てが人生の修行と思えばよいのではないか」
と思った経験がある。そして、その視点で全てを思い見直したとき、
霧が目の前から消えていく思いをした経験がある。

人生全般からみたとき、死に直面した時こそ最大なレッスンになるのだろう。
両親に後ろ姿を、その時に身近でジックリ見せてもらった。
しかし、自分が直面しないと解らないだろうが、ロスは直面した時何を学んだか?
一言二言では言い表せないのは当然である。

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2004年01月06日(火)
1007, 激突!エコノミスト-今年の景気予測

一昨日の田原総一郎司会の「サンデープロジェクト」の新聞見出しが
「激突!エコノミスト」であった。
経済予測をエコノミストが議論する新年恒例の内容である。
「小泉構造改革に展望があるか」を中心に議論をしていた。

ー内容をまとめてみると
・今の日本は「粉飾国家」とまで断言をしていたエコノミストがいた。
・ほとんどのエコノミストが「小泉の構造改革」は失敗をしたと断言。
 道路公団の改革は全くの骨抜きにされたと意見が一致。
・年内の景気は悲観論と楽観論が相まっていた。
・今年は中小企業の倒産等が大問題になる。
 それに伴ない地銀以下の問題が派生してくる。
 どのエコノミストも地方経済は最悪と認めていた。
・政府は、どうにもならないアメリカの国債を買い続けている。
 そしてドル安にして、日本の資産を吸い取っている。
 アメリカ経済は大統領選挙が終わった来年が問題になる。
・デフレスパイラスに入ったかどうかに対しては殆ど議論はなかった。
・来年のペイオフの影響はあまり議論はなかった。

 私の目から見て、刺激的な言葉は避けているようであった。
 悲観論者は遠慮をして話しているようでもあった 
 道路建設しても止めるにやめられないのが実情だろう。
 半減でもしたら、建設業界は壊滅をしてしまうからだ。
 いずれにしても、表面は繕いながら中味は凄惨な状態が避けられない。
 「粉飾国家」という状態であると見なくてはなるまい。
 他は如何であれ、自社は生き抜かなければならないのが経営である。
 この環境の中の舵取りは大変だ。 今更のことだが。
 
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2003年01月06日(月)
633、「不幸論」ー中島義道

 図書館で借りてきたユング派の哲学者の中島義道の不幸論が面白い。
幸福論の自己欺瞞を鋭く指摘したあとに、人間の最終結末の死をとらえて
不幸論を書いている。しかしあくまでも幸福論の批判であって、
不幸論そのものを見すえて論じてはなかった。

しかし不幸を座視にして幸福論を批判するのは、逆に幸福論をより鮮明に
浮かび上がらせて理解するのに良い。
幸福の構造は
1、自分の特定の欲望がかなえられていること
2、その欲望が自分の一般的信念にかなっていること
3、その欲望が世間から承認されていること
4、その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れてないこと
特に1〜3までの実現に4が生じてしまう。

幸福論というと、エピクロスの快楽主義が思い浮ぶ。
「人生において、面白おかしくしたい事をする事が全てに優先されるべき」
バランスが問題になるだろうが。
最近の幸福論としてヒルティやアランである。
ヒルティの幸福論はキリスト教の理想的なカタチ
・アランは内省ー解釈の仕方ー気持ちの持ちよう集約するとこんなものだろう。

私の幸福論はやりたい事を見つけどれだけやったかという
達成主義である。それもあくまで自己欺瞞でしかないのだろう。
愛・知・力という3点に自分の目標値は決め、達成のプロセスが=幸福という
単純なものだ。しかし死を宣告された時にその達成感など何の支えになるかと
考えると、その前に粟粒でしかない。
  この不幸論の一番気にいったところを抜粋した

ーだいたい、幸福論を書こうという人の動機が気に入らない。
彼(女)は、
・まずだれでも幸福になるという基本態度を押し出す。
・次に、この磁石の上に、自分の体験を重ね合わせて、幸福とは大それたもの
でないことを、それは考え方を変えることで誰の足元にもころがっているという、
壮大な建造物ー砂上の楼閣を創りあげる。

これは幸福教の布教にすぎないまやかしである。幸福そのものが虚妄なのではない。
幸福そのものが、じつはあまりにも高いところに位置する。
幸福が安直に手に入ると思う事が、虚妄なのである。
各人の幸福は自分の五感で探すしかない。
そしてヤコブが砂漠で神と格闘したように、全身全霊でみずからの
人生と格闘した後に、とうてい到達できない事を知って、絶望するほかない。
こういうことを悟った者は幸福でない。
しかし、幸福という幻覚に陥っている者より数段マシである。
ーーーー
以上がだいたい彼がこの本で貫いている主張の要旨だ。
私の今の気持ちー敢えて気持ちと書くーは以下である。
両親や身近な人の死に様や生涯をみて、一生かかって何かをやり終えた
人生そのものの判断を幸・不幸という言葉で論じるべきでない。
それは酔ってる気分の状態を論じているにすぎない。
「酔って気持ちが良いか、悪いかの」
まあ幸不幸は考えないのが一番幸福だ??

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2002年01月06日(日)
292,システム・エンジェニアーSE

ソフトハウスの仕事の柱になるのは、SEである。
去年、下の息子がアメリカの会計系のコンサルタント会社に就職した。
勤めて初めての帰省で、会社の内容ー特にシステムー
を少しでも聞いてみた。あまり多く聞くチャンスがなかったが、
「仕事内容は実際何だ?」と聞いたところ、意外な返事であった。

会計を中心としたシステムの「システムエンジニア」であった。
なるほど!と思ったが、当然といえば当然だ。
会社の(システム)改革は、新しい進んだソフトを導入することである。
そこでハッとした、事業も考えてみたらシステム・エンジニアでないかと!
会社作りもそうだ。時代のニーズに対する、新しいシステム設計とそのカタチ
作り(業態)を起業というのでは?間違えていれば即座に破壊される。

GE のウェルチのNO1戦略も事業のシステム設計でなかったか?
設計会社も考えてみれば、システム設計が本来の仕事である。
この事は全ての事業に云える事でないか。少し飛躍した論になってきたが、
情報社会において、「システムとして選択と集中の設計」がもっとも大事な課題
であることは確かである。

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ある時間の断片
1月6日 1969年
10時起床。
食後、11時から16時までジャスコに出す論文の下書きを完成。
それにしても集中力が足りない。構想力や文章力のなさに自分でも情けない。
絶対量の本を読んでなかったツケがこういうカタチになって出ている。

独りになる時間が少なかったのだろう。
その為に、独りになると逆に縮んでしまうのだ。
焦りと、動揺がここにきて出てきた。
リラックスをして自分をもっとしっかり見つめないとダメだ。
このように家に休暇で長く居れるのも、これが最後だ。
こうしてみると、やはり学生時代は人生で一番良い時だったのだ。