「今日を楽しむための100の言葉2」+「−−100の言葉3」
                  伊藤守著 ディスカバー21
               オハ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(≧∀≦)゚・*
 「今日を楽しむ以外、他に何時楽しめるというのか?」
 だが、今日を明日のために捨てる時期も必要である。
 その辺のことを知らないで鵜呑みにするのも問題である。
 要するに人のことばかり気にしないで生きること、
 そして楽しくないことを如何に面白く転換するかである。
 歳を重ねれば身につくことだが、経験を幾つか乗り越えたからである。
 ということは中年以降の開き直りを言っているに過ぎないと言えば、
 それまでだが、しかし、それを若いうちから知っておく必要もあるのか? 
 世の中、リアル世界にドップリ漬かっているのが8割?9割である。
 だから、敢えてこういう本がニーズになるのである。
 
 ーーーーー

『みんな、敵ができることにだけ脅えていて、
 味方をつくることから遠ざかっている。』
 −−
『自分を愛することと他人を愛することが同質のもののように思えるまで、
 ほんとうの思いやりなんてあるわけない。
 ただ、見返りを期待した思いやりがあるだけ。腐った演技は止めましょう。』
 ーー
『人が何を思ったっていい。
 自由に思わせればいい。
 介入する必要はない。
 思っていることは思っていることでしかないんだから。』
 −−
『喜ぶには、理由が必要だと思っているでしょ?
 喜ぶと決めて喜ぶんだよ。これが新しい生き方』
 −−
『嫌いな人とも 口がきけるようになりたいだって?
 いいんだよ、嫌いな人とは口はきかなくて。
 八方美人をしているから、息苦しくなるんだよ』
 ーー
『いい人ほど死んじまうだから、いやなヤツでいろ。』
 −−
『ほんとうに思っていることを伝えたいなんて、幼稚で未熟。
 あなたの気持ちほど、あてはならないものはないのに』
 ーー
『何を言うかは問題ではない。大事なのは、誰が言うか、
 どんな状態で言うか』
 ーー
『話なんて合わせておくだけで良い。
 なぜ、相手の考えを変えようというのか』
 ーー
『申しわけないくらい、あんたのことなど見ていないよ。
 誰もあんたのことなど何とも思っていないよ。どう思われる?』
 ーー
『自分のこと正直に話したら、弱味を握られるか、馬鹿にされるか、
 鼻先で笑われるか、友達をなくすか、だいたい、このうちの一つがおきます。
 ただ、それだけですから。』
 
 ーーーーーーーー
 そういえば、倒幕、その上に明治維新という扉を押し開いた高杉晋作
 「面白くなき世を面白く」という言葉が、人生の根本だろう!!
                  その意味でネットは大きな武器になる。
ヽ(*´∀`*)ノ.+゚またあ〜〜♪.+゚
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2007年01月04日(木)
2102, バンジージャンプ −2
   ohayou_〆(∀`●)
  (以前にも書いたことがあるが、同じテーマが二年後にはどうなるか、
    以前の文章を見ないまま書いて比べてみるのも面白いだろう)
  
昨日のNHK/HVで世界自然遺産の特集番組を幾つか放送していた。
その中の一つ「ビクトリアの滝」(am10:00~11:00)で、カメラをつけたカメラマンが
バンジージャンプをする場面があった。ジンバブエからザンベジへの国境に架かっている
100?の鉄橋の上から、飛び降りるのだ。 世界で一番高いジャンプ台である。
    私も11年前に飛び降りたことがあるが、今はもう無理だろう。

「ジャンプをしてやろう!」と、いざ決断した瞬間から息ができないほど緊張をする。
その数年前に、ニュージーランドで43?の橋の上から飛び降りた時の恐怖心が、
その時に立ち上がったからだ。そうなったら身体全体をフイゴのように呼吸するしかない。
そうしないと恐怖で息が止まりそうになる。

    恐らく銃殺か、斬首のため刑場に引き出される時は、あんな感じなのだろう。
    飛び降り台に立ったとき周りが恐怖心のためか、銀色に輝いて見える。
    躊躇したら恐怖心が数倍になるのを知っている。
    身体を前に向かって投げ出すしかないのである。 そして投身!
    その瞬間、頭の奥から「おい、目を開けてみろよ!」という声が聞こえてきた。
    そしてバウンドを数回したあと、腰につけたベルトを上に引き上げたのである。

引き上げられる時に更なる恐怖心が襲ってきた。
自分が逆さの宙吊りのまま大きく左右に揺れている時の恐ろしさ。
そこに、10歳位の黒人がするすると紐に釣り下がって降りてきて、
紐のついた鉤をかけて引き上げ始めた。もうできないが、何ごとも経験である。
南アフリカ旅行といえば、これが強烈過ぎて他が霞んでしまった。
 
   ほぼ同じ内容だが、以前書いた文章をコピーしておきます。
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2004/09/13
H0705  バンジージャンプ  −1 

南アフリカジンバブエー 
ナイアガラの二倍の落差のビクトリア大瀑布に息をのみ、
そのまま進むとジンバブエザンビアの国境を結ぶ小説等で有名な鉄橋がみえてきた。
よくみるとバンジー・ジャンプで丁度人がとびおりたところであった。
思わず“私もやりたい!”今年の五月にニュージランドで43mの高さを挑戦!
今度はその二倍あるという。現地案内人の黒人女性も、私の気迫におされて「OKの返事!」
一度国境を出てまったく無国籍の橋の上へ行ったところ、国境警備員も本当かと
何回も念を押した。

そして……。
飛び込み台に立って気がついた高さと恐怖心は正比例である事に!
氷つくような恐怖心!後ろをふりむいて
“やっぱりやめた!”という一瞬の気の迷いを振りほどいてジャンプ!
何と次の瞬間思いもよらない脳の奥より声!“目をあけてみてみろ!”
何とそこには高速道路で170?のスピードで、
車をはしった時の世界と同じような空をとんでいるような感覚。
いやに緑の木々の印象の強い光の中をつきぬけていく風景がみえてきた。
さらに恐ろしいのは50m位の中間で何分か宙づりになり、
橋まで再びひきあげられるまでの恐怖であった。
(次はヘリコプターよりのジャンプ!?)

ニュージーランド
四十三mの渓谷の吊橋より足首に一本のゴム紐をつけて飛びおりるゲーム。
まさに“身も氷るおもい”そのものであった。
あの飛びこみ台は死刑台と同じ感覚ではないかとその瞬間思えた。
立って下を見た瞬間まさに金縛りそのもの。
自分は何でこんな事をしてしまったのか。まさか自分がここより飛びおりる?
…本当に恐怖のどん底とはあの瞬間であった。
そういえば現地の日本人ガイドが私の申し込みに、
四回も私の目をみて念をおしたのも、そこに立って始めて頷けた。
また、その後にのったジェット・ボートの現地の運転手がその事を聞き、
真面目な顔で“クレージー”。(ニュージーランド、クラフトチャーチ)

60歳以上と、女性の場合スポッポンの場合無料だったが、
女性の無料があまりに多いので中止になったという。

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2006年01月04日(水)
1737, 日本一短い「母」への手紙   ー 読書日記
   (朝´∀`){♪Good Morning♪}(´∀`朝)
人は誰もマザコンである。だから、嫁姑の問題は深くなる。
母親の子供に対する愛ほど深いものはない。
  その愛の深さは人間の心の奥深く沈殿して一生の温もりになる。
   その温もりが人間形成の基礎構造になる。
    両親の温かさが感じ取れない人は信用しない方がよい!
    温みのない人は、その温みを他人にもとめる。
   しかし、他人との間の温みは独りになるとスグさめる。
  母親の温みは、そのまま直に子供に与えることができる。 
 良い母親に当たるかどうかは神の判断の領域である。
 良い母親になるには、良い伴侶が必要だ。それも、母親の責任になる!
 両親への感謝が、その人間の温みの原点である。
              ♪♪アリd(*´□`*)bガトー♪♪    
 ・・一筆啓上賞・・
お母さん
  雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。
      もうすぐ雪ですね。
                 天根利徳(大阪府51歳)
後10分で着きます。
   手紙よりさきに着くと思います。
      後で読んで笑ってください。
                 瀬谷英佑(愛知県16歳)
「私、母親似でブス。」娘が笑って言うの。
   私、同じ事泣いて言ったのに。
      ごめんねお母さん。   田口信子(群馬県38歳)
桔梗が、ポンとおとをたてて咲きました。
日傘をさした母さんを、思い出しました。
                  谷本栄治(京都府65歳)
母親の  野太い指の味がする
ささがきごぼう  噛まずに飲み込む
                  鶴田裕子(山口県21歳)
絹さやの筋をとっていたら  無性に母に会いたくなった。
母さんどうしてますか。
                  中村みどり(東京都31歳)
おかあさんのおならをした後の
どうもあらへんという言葉が  私の今の支えです。         
                  浜辺幸子(大阪府30歳)
お母さん、
ぼくの机のひき出しの中にできた湖をのぞかないで下さい。        
                  今 越 (福井県11歳)
お母さん、私は大きくなったら家にいる。
お帰り。と言って子供と遊んでやるんだよ。
                  藤田麻那(兵庫県9歳)
お母さん、もういいよ。病院から、お父さんを連れて帰ろう。
二人とも死んだら、いや。      安野栄子(千葉県44歳)           
              ( ・∀・)つ(:゚::)  ミカンでもドゾ♪
        =ε=(。・ω・)_旦~~ オマタセー
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2005年01月04日(火)
1372, 日本人と笑い   あはっ♪(^∇^*)*^∇^) あはっ♪
         ┌(。Д。)┐ あはは♪ (o_ _)ノ彡☆ばんばん
昨日の朝日新聞に、「日本人と笑い」をテーマにした全国世論調査の結果が出ていた。
 その中で、印象の強い順に抜粋してみる。
  ・最近よく笑うー62%
   ・人を笑わすことが好きー61%
    ・若い人ほど良く笑い、歳を重ねるほど笑いが少なくなる。
      女性の方が、男性より笑いが多い。
     ・どういう状況で笑うことが多いか?に対する答えとしては
      20代では9割が「人と話している時」であり、
      高齢者ほど、「TVや漫画を見ているとき」が増えていき孤独な笑いがふえる
     ・ユーモアのセンスは、「かなりある」「すこしある」を合わせて、全体の6割。
     ・親父ギャグに代表される「親父ギャグ」については、
      76%が別にかまわないと肯定的であった。ワーイ♪\(^ω^\)( /^ω^)/ワー 
     ・今の世の中を例えると苦笑いが38%、作り笑いが23%、冷笑が8%、泣き笑いが8%、
      というマイナス系の笑いが圧倒的で、
     「微笑」が15%、「大笑い」が5% と、プラスの笑いを思い浮かべる人が少ない。
   ・今の日本に笑いが「少ない」という見方が71%に達している。
 ・少し話は変わるが、生活実感として、楽になったは10%で、
  「変わらない」が64%、「苦しくなった」が28?である
  「心のゆとりがある」と「生活実感でよくなった」とプラスの実感を
   持っている人ほど「最近よく笑っている」と答える人が圧倒的に多くなる。
 ・「人を笑わせることが好き」で「ユーモアセンスがあると思う」
   割合が増えており、そういう人ほど「最近よく笑っている」と答える傾向が強い。
              Ψ( ̄∀ ̄)Ψケケケ   Ψ(☆w☆)Ψ ケケケッ
  ー以上が、朝日新聞の調査の結果を要点であるが、思ったより、
    笑いに対して肯定的で、わらいに溢れているのに驚いた。
    私の場合、日曜日を笑いの日にして積極的に取り入れているが、
    あくまで、TVのお笑い、バラエティーが中心であリ、孤独の笑いだ。
    友人や、家族と談笑をしながら食事をするのが一番の幸福のカタチというが、
    その為にはユーモアのセンスが必要である。
    しかしユーモアのセンスは知的センスを要求される。それも同じ水準が。
  だから、TVとか寄席で代替するのだろう。
 それ以外はマイナスの笑いにお互いになってしまうから始末が悪い。全く!
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2003年01月04日(土)
631, 文化と文明

文明と文化の言葉の意味を明確にしておきたいと思い辞書でひいてみた。
1、世の中が開け、生活が高度に進むこと
2、人類のあらゆる時代を通じ、人間が自然に働きかけることによって、
 みずからも自然状態から脱して作り出してきた物質的・精神的ないっさいの成果。
 フンボルト以来物質的文化を文明、精神的文化を文化と呼び分けることが多い。
これまでは 文化の積み重なりとしての遺産を文明。
その現時点の花開いている集合体を文化と理解していた。
時間軸でショートスパンで捉えたものを文化。
ロングスパンのものを文明として捉えていた。

しかしインターネットでで調べてわかった事は以下の事である。
ー各ホームページから抜粋したものを纏めたものであるー
・文化は個々人の心(意識と無意識)であり、
・文明は人間を取り巻く環境(自然環境、建築環境、社会環境)です。

ー文明とは人間が造り出した目に見える物質的なものに対して
 向けられる言葉であるが、
ー文化とは人間の身につけた自らの行動を律する目に見えない精神的なものに
 対して向けられる言葉である。
 最近の言葉でいえば「ハード」と「ソフト」との違いと言うことになる
「文化」と「文明」という言葉のつく固有名詞を考えて見ればこの違いはより明確になる。

・「○○文明」と言われるものの多くは「インダス文明」とか「古代文明
 などのように、特定の時代の、しかも特定の人々の社会もしくは経済的所産を指しており、
 その多くはすでに歴史の流れの中で過去のものとなっている。

・これに対して、「○○文化」と呼ばれるものは「イスラム文化」とか
仏教文化」というように、たとえその誕生した時期や地域が特定されるにせよ、
 その時代や地域に制約されることなく、その多くは今日まで何らかの形で生きている。
 確かに文化と文明とは人間の歴史の中で一体となっており、文明なしの文化、
 文化なしの文明などあり得ないのであるが、これらは決して同一のものではない。
 高度の文化を持ちながら、しかもずっと低度の文明しか持たない民族がいる
 ――例えば古代インド人――一方、大いなる文明を持ってきたが、
 比較的低い寄せ集めの借りものの文化しか持たない国民――例えばローマ人、
 そして現代ではアメリカ人――がいるのである。
 歴史の隠れたドラマは、人類の内的価値と外的価値の永遠の闘い、精神と物質、
 文化と文明との闘争であるとさえ言いうるであろう。
 アメリカとアラブの闘いは文化と文明の闘いと思っていたが、
 文化と文化の争いでしかない?
  
 ーー自分である問題を提起すると、一瞬のうちに纏めができることに驚いている。
 幾つかのホームページの要点を張り替えただけでチョッとした
 学者並みの小論文が出来上がる。
 
・・・・・・・ 
2002年01月04日(金) 290、歓喜ー2

TVであるが、
元旦の小沢征爾のウイーン・フィルニューイヤ・コンサートがよかった。
あまり興味のない分野だが、日本人初のこの指揮を生放送ということで見てみた。
もちろんウイーンからの生である。
シュトラウスの「ラデッキー行進曲」やワルツ「美しく青きドナウ」などであった。
それに合わせ他の?お城でダンスを踊っているのが夢のような世界である。
指揮者・演奏者・観客が一体になり音楽の世界に入りこんでいる歓喜の世界であった。
当然最後はアンコールの拍手の渦であった。
この音楽会でこの曲を聴く前と後、というくらいのインパクトを与えるのが
芸術の力である。あの場面にいたら、その位の気持ちになったのでなかろうか。
歓喜・感激はそれ位のインパクトを人間の心に与えるものである。

音楽などの芸術は、宇宙・大自然の中のあるメッセージを一瞬にとらえ、
作品に仕上げたものであろう。それを会場の全員がそのまま受け取っているのでないか。
歓喜は当然のことだ。

・・・・・・・・・
1月4日 1969年
 10時に起床。
食事をして、顔を洗い、新聞を読んだりして時間を過ごす。
午後は裏に住む姉の正子さん宅の屋根の雪下ろしだ。
2時間した後に、従妹の旦那の関口さんが来る。
高専の先生をしている。彼と学生運動から教育論について話す。
気がついたら3時間も経っていた。気持が若く開放的だ。
先生とはこういうものかと思った。
20時からジャスコオカダヤの論文の構成を考えるが、上手くまとまらない。
この程度の問題がナカナカ上手くいかない。 如何したのだろう。