* ゴーンの私物化、失脚が当然だった?
 年を越したゴーンの問題。調子に乗って日産を私物化、逮捕も致し方がないが…
リストラ直前の現地の・日産のトップのクーデターも事実。最後、落着くところは
「両者、同成敗!」。 NO・1のゴーンと、国内NO・3、4の日本l現地の経営陣
とでは、力量があまりに違い過ぎ。このまま釈放すれば手負い傷の大虎を野に
放つようなもの。当分の留置も当然のこと。ゴーンもライバル会社を含め敵が多い。
 「四つん這いにされ、何に棒を突っ込まれ…」などの実態が世界に公表され、
野蛮国のレッテル張りのイメージづくりは、欧米マスコミの得意とするところ。
日本としては、オリンピック前もあり、早々の幕引きにしたいところだが…。
罪状からみて、<「資本の論理」でゴーンの逆転の筋書き>は潰えたようだ。
 安倍首相も検察に後ろめたい立場ゆえ、圧力をかけ辛い? 奇跡的回復の裏には
リストラされた何千、何万人のゴーンに対する恨みつらみがあって、この一連の
追落しには、絶好の材料となった。検察も可能な限り拘留を引き延ばし、ルノー
内部の力を削ぎ落としが狙い。まだまだドラマが待ち構えている… 
「事実は小説より奇なり」のドラマが本格的に開幕。第二、第三のドラマが…。

   * 白鵬の落日ですか…
 ・「横綱アドバンテージ」と名付けた、この文章読んだか否かは分からないが、
今場所から、白鵬が、立合いの張手と、肘打ち風カチ上げを封印してきた。成る
ほど大横綱と好感を持ってみていたが、この3日間を連敗をして、優勝も覚束なく
なってきた。 白鵬が潰れてしまうとが総崩れ。どうなるか… 
東京オリンピックまで休み休み延命には、休場明けには優勝が必要条件。
そのため、今日明日は勝てる実力は、まだ十分有りと覗えるが? 
好角家としては、俄然、面白くなってきた。… 
休場明けの御嶽海が、負傷をおして再出場してきて、連勝をしたのが驚き。
何だろう、貴景勝と御嶽海の、あの底力は? 
 ・19、20歳に有望力士の塊がある。 19歳といえば、元横綱大鵬の孫の納谷、
横綱朝青龍のおい豊昇龍、琴手計(佐渡ケ嶽)ら同学年で注目の力士は多いが、
元中学生横綱の塚原もいる。一歳上の20歳にも元横綱の孫がいる。佐田の山
北の富士らと同時期に活躍し「猛牛」と呼ばれた琴桜(故先代佐渡ケ嶽親方)の
孫、琴鎌谷だ。この一団が2〜3年後には、幕内上位に間違いなく上がってくる。
それまで如何に持たせるか? 特に横綱大関に役者が必要だが… 
 ガチンコ(真剣勝負)をやり過ぎると、業界そのものが崩れますか。

・・・・・・
6162,閑話小題 〜キツネとハリネズミ −1
2018年01月26日(金)
           『クラウド時代の思考術』パンウドストーン著
   * キツネとハリネズミの生き方
 経験から知っているのが、スペシャリストか、ジェネラリストでいくかの選択。
これは古代詩人が看破していたこと。学生時代の友人でハッキリしていたのが、
一人の異性とジックリ付き合うタイプと、浅く広く適度に付き合うタイプである。
仕事も、人間関係も然り。「キツネは多くのことを知っているが、ハリネズミ
は大事なことをひとつだけ知っている。(アルキロコス)>
古代ギリシャの詩人アルキロコスは、人生にはキツネとハリネズミという
2つの生き方があり成功者はしっかりとそれを決めている’と言う。
世界を一つの概念からなるメガネから見るのか? 
あるいは様々な視点から眺めるか?を決めた人たちが、結果を残してきた。
そして、キツネ型とハリネズミ型の才能が、結びつくと最強なチームが生まれる。
 Appleはキツネ(ジョブズ)とハリネズミ(ウォズニアック)の強みの組み合せ
で、成功をした。個々の知識と経験を生かせる、さまざまな分野のスペシャリスト
たちとコラボの能力が必要となる。自分の強みと他者の強みを組み合わせができる
新種になることが未来の成功のためには、欠かせません。 
  〜ここで…
< 教えるのがいちばん難しいのは、問うべき大事な問題を特定する直感です。
知的好奇心と言ってもよいでしょう… …教育を受けるなら、さまざまな筋肉を
たくさん動かせるように、できるだけ多様な科目を学ぶべきです… 
…専門的な技能はいつでも学べる、そういうことは解決すべき問題に直面したり、
現実的な必要性に迫られたりしたときのほうが学ぶ意欲が高まるものです。専門
を、あまり早い時期に絞り込むのは問題。
あまりに早いタイミングで自分の専門分野を決めるのではなく多様性を重視した
ほうが、面白い結果が得られるというのです。 多くの体験や様々な知識があった
ほうが、人生を面白くできるのです。シンガポール国立大学学長のタン・チョー
・チュアンも同じように考えています。
 私がますます強く感じるのは、幅広い知性の重要性です。理由は2つ。
一つには、私たちが仕事や生活のなかで直面する課題の多くが複雑化している
ことがあります。課題がさまざまな分野や領域に関連するようになっている。
幅広い知的基般皿がなければ、複数の分野にまたがる潜在的な関連性を見抜く
ことはできないでしょう。
もう一つには、かつては私たちが生涯に手掛ける仕事は3つか4つくらいだと
考えられていましたが、今では平均的な卒業生は10とか12といった種類の
仕事をこなす可能性があります。それらの仕事がいくつもの異なる分野にまた
がることも想定されるので、軽快に頭を切り替えられるような知的基盤を持た
なくてはいけないのです。≫
ー―――
▼ この例えからすると、私は明らかに「キツネの生き方」の要素が強かった。
 しかし準備期間15年を含めた45年の仕事人生は、ハリネズミである。
この随想日記も17年間、続いたのだからハリネズミだが、内容はキツネ?
それともハリネズミ? 私のライフワークの、『地球景観・観光ツアー』。
行先は、ハリネズミというより、キツネ。地球を碁盤目に見たて、外側から
埋めていく。少し贅沢であったが、コストの10倍の価値が充分にあった。
殆どが観光シーズン終了際のキワモノ狙い。その情報探しから、楽しむ。
 51回の内容を振返って、深さをもっと実感するには、半分をケニア
タンザニアか、スペインに集中する選択もあった。しかし、8割の全てがベスト
と思えるため、これで間違いはなかった。 
さて今、「キツネとハリネズミの対話」を思いついた! 面白そう。
 司会を大家さん、対談仲間に、熊さん、寅さんを入れて…  近々に? 

・・・・・・
3593, 誰も書かなかったアメリカ人の深層心理  −1
2011年01月26日(水)
  「誰も書かなかったアメリカ人の深層心理 」 加藤 諦三 (著)
 普段、マスコミなどから受けるアメリカと、著者が、ここで述べている
内容とは大きな隔たりがある。度々、アメリカに滞在した普通の目線で
平均的なアメリカ人を描写し、合せ鏡で日本人を見ている。
 日本人が誤解しているアメリカ像が、現在の日本社会を疲弊させている
という論には納得する。 ーアマゾンの内容紹介よりー
≪ なぜリーマンショック後、平気で多額の報酬を受け取ろうとするのか?  
 アメリカ人は、本当は何かを考えているのか。 経済格差の国・アメリカと、
幸福格差の国・日本。世界一楽観主義の国・アメリカと、悲観主義の国・日本…
長年、アメリカ・ハーバード大学で准研究員として活動を行ってきた心理学の
第一人者の著者が、そのベースにある彼らの宗教観や家庭観などから紐解いて、
初めて綴った目からうろこのアメリカ人論。
〈レビュー1〉 この本ではマスコミなどで流布されている米国像とは異なる、
 米国の一般の人々の社会における価値観、その元になる宗教、特にプロテス
タンティズムについての考察を通じて、日米社会の違い、さらには現代の日本が
抱える最重要課題、日本における人々の社会への不信感について論じている。
そうした不信感が人々のきずなを失わせ、米国とは大きく違う日本社会に
 米国流の競争システムを導入する問題を指摘している。実際、この10年で
大きく日本社会は壊れてしまったのではないか。 では日本における心の問題を
社会レベルでどのように解決していけばいいのだろうか。著者は宗教の重要性に
ついて述べているが、日本では宗教は儀式化しており、生きる知恵を授ける
存在になっていない〉 
▼ 著者は、ここで哲学者のアドラーの言葉を借りて、アメリカの金融資本
 主義者の殆どが深刻なノイローゼ患者という。そのほんの少しの患者を、
一般のアメリカ人と解釈するのは間違っていると。 彼等は子供のときから
スポイルされ、幼児の頃から他人のなしとげたものを如何に搾取するかの訓練が
出来ている。そして、そのノイローゼ患者は、大衆に影響を与える。
この人たちが、心の基準のない日本人に与えた影響は深刻である。
日本人が経済的豊かさにあるに係わらず、幸福と感じないのは「心の基準」
を見失っているからでないかと指摘する。人が社会性を生み出すのは、
カレン・ホルティのいう「積極的感情」である。それが日本になくなって
いるのが、現在の日本である。日本の少子化と高齢化もあるが。 ーつづく
・・・・・・
5429,人生で最も大切な技術 ー? 苦悩と不幸の違い
2016年01月26日(火)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 苦しみと不幸の違い
 ことにあたった時、〔幸福の状態とは、ポジティブ3に、ネガティブ1〕
と、自問自答すると、嫌な気分が早々に消えていく。良いことが続いたら、
〔今に、マイナスが起こるだろうが、敢えて受けとめる〕と、有頂天に
ならないよう気をつけてはいたが、これが難しい! で、この様。人生を
俯瞰すると、どん底の時節に素晴らしいことが集中していた。 苦しみ、
不幸には、安楽がソッと傍に控えて支えてくれている。当人は、それに
気づく心の余裕がないためだが、辛いときは心底、辛い!〜その辺りから〜
≪ 幸福と快楽の違いを考えたところで、心身の苦痛や苦難と不幸を区別
 する必要がある。 苦難は外から被るもので、不幸は自らが作りだす。
サンスクリット語にドウッカという言葉がある。これはスカの反語で、
定義は、「不快な感覚だけに留まらず、究極的に厭世観にながる苦しみ、
痛みに対する基本的な脆さ、生きることが無意味で価値がない状態」と
なっている。 サルトルは著書『嘔吐』の主人公にこう言わせている。
【 もしも存在とはなんであるかと問われたならば、私は誠意をもって、
 まったく無意味なもの、空虚な入れ物である、と答えたであろう。
私たちは自分自身に当惑し気詰まりな存在の群れであって、誰も彼も、
そこにいることの理由を少しも持たなかった。それぞれ存在するものは、
当惑し、なんとなく不安で、互いに他のものとの関係において余計なもの
である、ということを感じていた… ところでこの私もまた余計なもの
だった …これら余計な存在の少なくともひとつを消滅させるために、
自分を抹殺することを漠然と思い描いてみた。 】
 自分がこの世から居なくなった方がいい、と信じることが自殺者に共通する
動機である。苦しみ(苦難)は、無数の原因によって生じる。中には自分の力で
何とかできるものもあれば、まったく無力のこともある。身体障害者として
生れたり、病に侵されたり、愛する者を失ったり、戦争や天災に巻き込まれる、
等の苦しみは不可抗力である。それに引きかえ不幸はまったく違う。
なぜなら、不幸は、外的な条件によって生じる身体的、道徳的な苦痛と
関連するとはいえ、本質的な関係はない。
 四肢麻痺に関する研究によると、麻痺が生じた直後に大半の障害者が
自殺を考えるそうだが、一年後には10%だけが惨めな人生と考えているという。
残りの90%は、生きることの素晴らしさを考えているのである。苦しみを不幸
と解釈するのが心の在り方であるのと同様、それをどう理解するかを支配する
のも心である。世界観を管理、知覚、解釈する流儀をわずかに変化させるだけ
で、私たちの在り様が大きく変わるのである。移ろいやすい感情を経験する
仕方を変化させることが、気分と在り様を永久に変えることにつながる。
 人間を悩まし続ける苦しみを消滅させることになるこの「治療法」は、
人間として生きるに最適な生気溢れる状態をもたらしてくれる。≫
▼ ネットで四肢麻痺を検索すると、
【いずれの場合にせよ,対麻痺では,上肢は健全なので,車椅子の使用により
日常生活を営むことがかなりの程度まで可能である。しかし,脊髄損傷が頸髄
に生じたり,末梢神経や筋肉の病気が下肢だけでなく上肢にも生ずるような
ことがあれば,上肢も下肢も運動麻痺を生じ,四肢麻痺となってしまう。 
四肢麻痺は左右の上下肢がすべて運動麻痺に陥った状態であり,頸髄損傷による
ものでは,下肢の痙性対麻痺に上肢の弛緩性麻痺が加わって生ずるものである…】
とあった。この状態で、90%の人が生きることの素晴らしさを感じているとは!
 四肢麻痺は、動物から植物(人間)へ移行するようなもの。その状態を瞑想と
内的変化で割切らざるを得ない結果、生きることの幸せに気づくののか?
 急に盲目になったり、四肢麻痺になったとしたら、死にたって当然だが、
一年で90%の人が、これ以上ない絶望の淵から逆照射した諦めの心境が、
その事態を受入れる、強烈な力が湧き出るためである。
〜〜
4700,閑話小題 ーシネマの観客は、私一人!
2014年01月26日(日)
   * 映画館貸切?の念願成就!
 映画館を、一人貸切ってみたいと思っていたところ、奇しくも、
その思いが成就。一度、上映の直前まで一人だったが、数分前に5〜6人が
入って来てガッカリしたことがあったが・・ 一昨日は、4〜5百人の会場に
私が一人だけ。 その感想は、映画に集中できるのがベスト。
内容は、宇宙もの『エンダーのゲーム』で、期待してない分だけ、面白かった。
若者のゲームの物語に参加して、手軽に自分の枠を超えて宇宙に開放される
感覚がよい。一晩、飲みに出歩いたと同じぐらい?
とすると、一割以下のコストは価値がある! 
   * 近所の喫茶店
 二度目になるが、一昨日の午前中、近くのチェーン店の喫茶店
『米田コーヒー』に行く。一〇時過ぎから一時間半いたが、11時までは
トーストと卵がサービスでつくためか、広い店内は満席。何か落ち着くのは
何だろう? ほぼ老夫婦か、中年女性づれ。それが昼飯かわりになって
夕方まで腹持ちがした。100席+別席で150席。値段は400円なら、
価値がある。コーヒー・パンレストランという風。
  * ウィリアム・ブレイク の詩が良い!ー『無垢の予示』より         
 人の定めとしての喜びと傷心、希望と絶望、幸と不幸・・ まさしく、
これらを「正しく知ったとき」、私たちはこの世を無事に進んでいける。             
 ――                             
 一粒の砂に世界を見/ 一輪の花に天国を見る/ 
 手のひらに無限を/ ひとときに永遠をつかむ
・・・・・・
5065,あわいの力 ー?
2015年01月26日(月)
        ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
  * お能の世界とは 
 この本を読んで、長岡高校の講堂で『能』を観た時、その幽玄の世界に
魅入ったことを思い出した。以来、TVで何度か観たことがあったが、知って
いることは、シテと、ワキの存在ぐらい。 ネット辞書によると、
<芸能としての起源は、飛鳥〜奈良時代に遡る。観阿弥世阿弥金春禅竹
から現代まで約7百年。江戸幕府の終焉とともに衰退したが、明治中期に、
その状況を憂える文化人や資産家の尽力によって復興へ向かい始めた。
猿楽に代わる「能楽」という用語も広まった。 現在、ユネスコ
「人類の口承および無形遺産の傑作宣言」を受け、2001年「世界無形文化遺産
として登録されて、少し演能が盛んになり、神社やお寺での薪能なども増えた
ように見受けられる。>とある。登場人物の役割を序文に簡潔に説明してある  
≪・能には、シテとワキという二人の主要な登場人物がいます。
 シテは面をつけ舞台で華やかに舞い、ダイナミックに飛んだり跳ねたりする。
 能といわれて普通の人が思い浮かべるのは、このシテでしょう。
・ワキは、面をつけることもなければ、派手に立ち回ることもない。
 装束も地味で、目立った活躍をすることもありません。
 ほとんどの時間、舞台上でじっと座っている。
・シテを演じる役割の人をシテ方、ワキをの役割の人をワキ方といいます。
 能の世界は、シテ方の人は一生シテを演じ、ワキ方の人生ワキを演じます。
 能楽師の家に生まれた人は、生まれたときから決まりますが、私のように外の
 世界から入ってきた者の場合は、その道が決まるのは、能の世界に入るとき。
 シテの師匠に弟子入りしたら一生シテ方だし、ワキ方の師匠に弟子入りしたら
 一生ワキ方です。ワキ方が、「今日はちょっと面をつけてみたいな」とたまに
 シテ方を演じるようなことはありません。
・私は、高校教師をしていた25才の時、ワキを演じる師匠の姿に魅せられたのが
 きっかけで弟子入りをして、ワキ方になりました。ですが、どうもこの
 「ワキをわざわざ選ぶ」というのは、一般の人たちだけでなく、能の世界に
 いる人たちからもときどき不思議がられます。「なぜワキ方なんか選んだのか」
 などと聞かれたりします。「ワキなんか」か、とは失礼ですが、シテ方には面、
 笛方には笛、鼓方には鼓という「お道具」がある。しかし、ワキ方は何もない
 じゃないか、そう言うのです。・・・ ≫
▼ 小中学校の同級生の一歳年上の兄が能楽のシテで、地元紙に、『続けている
 内に、シテの役割の人か、現実の自分が混同するようになった』と、その幽玄
の世界の魅力を書いていたが、談志の『芝浜』に似ている。最近、若い女優が
インタビューで、一年間、地方で、あるヒロインを撮影した感想を述べていた。
『自分と、演じている役割との間にある皮膜を如何に薄くするか、に苦心した!』
・・・・・
4333, 自己とつきあうということ −3
2013年01月26日(土)
        「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著) 
 * 自己の主題化とは、変化する自分を距離を置いてみる自分を見つめること!
≪ われわれは万年筆や鉛筆といった事物と異なり、不断に生成し続ける存在
 であり、同時にその途上にあって、しばしば自己へのかかわりを課せられる
ような存在である。われわれは、事物や植物や多くの動物のように自己の存在を
意識することなく生きることはできず、自己や自己の生にかかわりをもちつつ
存在することを余儀なくさせられるのである。年齢的な変化とそれに伴う生成の
途上で、自己に関連することで言えば、自分がどのように変化しているのかを
問うこと、自分がどのような位置にいるのかを確認すること、自分がどのような
方向に進めぱよいのかを探ることなどは、誰にも避けられないであろう。
自己が自己を問うということは、自己をひとつの問題として意識することであり、
自己のなかに問うに値するものを見いだすということである。それはまた、自己
といった課せられた問いとして積極的にひき受けることでもある。
そして、その問いを実りあるものにするためには、自己のおかれている状況や
変化に対して注意深く見つめていなければならない。 自己の主題化とは、
状況のなかで変化した、あるいは変化しつつある自己の姿を一定の距離を置いて
何度も眺め変す試みである。しかし、それにとどまらず自己の変化を観察する
自分自身をも距離をおいて捉えなおす試みでもある。自己が生成の途上にある
かぎり、この試みは何度もくりかえされ、そのつど異なった自己の姿が
あらわれてくるであろう。・・・ ≫
▼ この随想日記の楽しみは露悪的、自虐的に自分を曝け出すことである。
 それは、自分を上から目線で見つめることになる。それを続けていると、
書いた数年後に、上から目線の自分を、さらに上から見ることが出来るようになる。 
だから、自虐をしている自分を見下している己もまた、自動的に見ている自分が
出来ている。毎年の同月同日に、10数年分の、これを毎朝、読み返している。
その時々の視線と視点が、デズニーのキャラを見ているようで、それがまた面白い。
 それは自分自身だけでなく、その対象にした人、出来事をも上から目線でみる
ことが出来る。だから、極限の喜怒哀楽の現象も、冷静に再体験することが出来る。 
晩年に、多くの人が自分史を書くのは、自分の人生を主題とした物語として、
書き残すため。他からみたら大したことでないが、本人からしたら人生は自分が
ヒーローである。 変化する自分を予め物語としての粗筋と、生きる指標を
決めておくとおかないで大きく違ってくる。最期は、‘面白かった!’
と実感できるかだ。

つれづれに

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積雪は20センチぐらいか。 1mは降らないと!
寒さは直接、腰痛につながる! 
 
 昨日のシネマは『サイバー・ミッション』
邦画と思いきや香港映画。シリアスで、感覚が違う。
85点なら良しとしなくては。



・・・・・・
・・・・・・

4333, 自己とつきあうということ -3
2013年01月26日(土)
        「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著) 
 * 自己の主題化とは、変化する自分を距離を置いてみる自分を見つめること!
≪ われわれは万年筆や鉛筆といった事物と異なり、不断に生成し続ける存在 であり、
同時にその途上にあって、しばしば自己へのかかわりを課せられるような存在である。
われわれは、事物や植物や多くの動物のように自己の存在を意識することなく生きる
ことはできず、自己や自己の生にかかわりをもちつつ存在することを余儀なくさせられる
のである。年齢的な変化とそれに伴う生成の途上で、自己に関連することで言えば、
自分がどのように変化しているのかを問うこと、自分がどのような位置にいるのかを
確認すること、自分がどのような方向に進めぱよいのかを探ることなどは、誰にも
避けられないであろう。自己が自己を問うということは、自己をひとつの問題として
意識することであり、自己のなかに問うに値するものを見いだすということである。
それはまた、自己といった課せられた問いとして積極的にひき受けることでもある。
そして、その問いを実りあるものにするためには、自己のおかれている状況や変化に
対して注意深く見つめていなければならない。 自己の主題化とは、状況のなかで
変化した、あるいは変化しつつある自己の姿を一定の距離を置いて何度も眺め変す
試みである。しかし、それにとどまらず自己の変化を観察する自分自身をも距離を
おいて捉えなおす試みでもある。自己が生成の途上にあるかぎり、この試みは何度も
くりかえされ、そのつど異なった自己の姿があらわれてくるであろう。・・・ ≫
▼ この随想日記の楽しみは露悪的、自虐的に自分を曝け出すことである。
 それは、自分を上から目線で見つめることになる。それを続けていると、
書いた数年後に、上から目線の自分を、さらに上から見ることが出来るようになる。 
だから、自虐をしている自分を見下している己もまた、自動的に見ている自分が
出来ている。毎年の同月同日に、10数年分の、これを毎朝、読み返している。
その時々の視線と視点が、デズニーのキャラを見ているようで、それがまた面白い。
 それは自分自身だけでなく、その対象にした人、出来事をも上から目線でみる
ことが出来る。だから、極限の喜怒哀楽の現象も、冷静に再体験することが出来る。 
晩年に、多くの人が自分史を書くのは、自分の人生を主題とした物語として、
書き残すため。他からみたら大したことでないが、本人からしたら人生は自分が
ヒーローである。 変化する自分を予め物語としての粗筋と、生きる指標を決めて
おくとおかないで大きく違ってくる。最期は、‘面白かった!’と実感できるかだ。

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3228, フリー -5
2010年01月26日(火)
          「フリー <「無料」からお金を生みだす新戦略>」 
                        クリス・アンダーソン著  
 * フリーワールド ー誘発された陳腐化ー  (p271)
≪中国では、不正コピーが音楽消費の95パー占めているといわれる。といってミュージシャンは動じない。
 彼等は多くの人が聞いてもらえるほど、そのコンサートツアーのギャラが高くなるから、別に困らない。
困るのは音楽会社だけ。経済学には「海賊版パラドック」という用語がある。ファッション業界を下支え
する根本的なジレンマから生まれている。つまり、「消費者は今年のデザインを気に入らなければならない。
そのうえに、直ぐにそれに不満を持ち、翌年のデザインを買いたいと思う必要がある。技術商品と違って、
アパレルメーカは翌年の製品が優れているとは主張できない。 見た目が違うだけである。
そこで、消費者に熱を冷まさせる理由が必要となる。その解決策は偽物が多く出回ることで、高級だった
デザインが大衆向けのコモディティになることなのだ。そうすると、そのデザインの神秘性が失われ、目の
肥えた消費者は何か特権的で新しいものを探さなければならなくなる。これが「誘発された陳腐化」と呼ぶ
ものである。コピー商品の登場で、そのファッションが流行に敏感な人のものから大衆のものへとすばやく
移り、敏感な人は何か新しいものを見つけなければならない。中国では敏感の人とは。新興の富裕層と、
中流階級で、10億の大衆はまだ、その偽物を持つことで高級品の市場に足を踏み入れたばかりである。
本物と偽物の異なるセグメントをターゲットにし、互いに相手の役に立っている。≫
  ー
  偽ブランド品はメーカーにとって不可欠な存在だったのだ。「偽ものが出回るほど、
 一般の人が憧れる商品としての価値の証明になる」上に、更に「誘発した陳腐化をうながしてくれる」。
 悪役が善玉を引き立ててくれる上に、善玉の次なる善行を引き出す役割になっている。
 
 ・・・・・・・・
2853, 格差世襲  -1
2009年01月26日(月)
ー 貧困とは溜めのない状態 ー
格差について、一昨年の今時分に(2007年01月25日(木)階級社会ー不平等社会を考える)で取り上げた
ことがある。他にも読書日記で幾つかの本を取り上げた。 ところが先日、図書館で、半年前の08年
8月30日号の「週間ダイヤモンド」を見つけた。
 ー「下流」の子は下流? 格差世襲 ー の特集である。
普段の会話ではタブーに近い内容が次々と出てくる。格差といえば差別である。
自分が上位に立っているときは何とも感じないが、下位にたたされて差別で屈辱を経験した時に
格差社会の実態を知ることになる。 差別からくる屈辱は傷になり、恨みは何時までもまとわりつく。
般若の面は、差別の屈辱に対する怒りの顔。
 この特集では、いろいろな視点から格差を調査しているが、
・「育った家庭によって、機会の不平等が生じている」という「格差世襲」の残酷な調査結果を示す。
・「まるで溜めのない貧困層」、それに対して 「溜めに包まれた富裕層」
 「貧困とは‘溜め’のない状態」と現実は教えてくれる。
その典型が何も考えない若い人の成り行きの「??婚」。何の経済的な裏づけのない人たちの結婚である。
ここに夫婦格差が生まれる。 その子どもには両親以上の教育が施すことなど、出来ようがないのである。
その結果、下流の子は下流になるしかない。 「溜めのない貧困層」といえば、大阪・堺市生活保護
受給者の四分の一が、親の世代も生活保護を受けていた。母子家庭にいたっては、四割が‘生活保護二世’。 
また母子家庭の26・4パーセントが十代の出産を経験。まさに貧困の連鎖の構図がここにある。 
逆に溜めのある人は、溜めのある人と群れるケースが多くなる。一例として最近、医者同士の結婚が多い。 
女性が医学部に多く進学するようになった結果である。また医者社会での結婚のチャンスも多く、二人の
給料の総額は莫大になる。1995年以降に自分でのし上がってきたベンチャー経営者や、専門職を中心に
した新世代の富裕層は、お金より自分の知恵や経験を子どもに相続させたいと考えている。
多額のお金を相続させるより、子どもの教育に金の糸目をつけないのが特徴。
無形の財産を与えることで、子どもにも自分の力で成功を勝ち取るように教えている。
「地位獲得競争ゲーム」に、無形の「出来レース」を与えていることになる。
世界の億万長者のトップのビル・ゲイツ、ウォレン・バフェットとも、資産は子どもに残すことをせず、
その大半を寄付をすると公言している。 とはいえ、同じ兄弟でも大きな強弱が出来る。                                                              - つづく
ーーーーーーー
2008年01月26日(土)
2488,  iMacの感想! 
     ○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ W( ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄)W は~♪
Mac製品の売り場を何度か通って、何時かは使ってみたいが何か壁があった。 それは外国メーカーと、
少数派の壁だったろうか、それとも周囲に一人も使っている人がいなかったため? だったのだろうか。 
しかし、今度思い切って買ってみた。iMacというWindows兼用可能の製品で、オールインワン型である。 
買ってみて初めて分かったことは初心者に優しいということである。まだ合計でも数時間しか使って
(いや、触って)ないが、それでもWindowsより使いやすいことは分かった。Windowsは、あらゆる
メーカーのパソコンにのせるため、メーカーの方に顔を向けざるをえないのである。
ソフトとハード一体型開発の大手は、考えてみたらアップルしかない。
それを強みにして消費者に(特に初心者)にとって使いやすい開発に特化してある。
ところで、なぜマイクロソフトにシェアをおさえられたのか?
多くのパソコンのメーカーが、それぞれ特化しながら売り込みを図るからである。
更にマイクロソフトのナンバーワンの強みに、ソフトのシェアがWindowsで占めている事情がある。
一般企業や大衆はMacに魅力を感じながら躊躇するのである。 
ところが私のような、ブログとHPとインターネットと、写真管理ぐらいしか必要としない大多数が、
Windows vista の不評をキッカケにMacに関心を向けはじめつつある?ようだ。会社の事務所の
MacはWindows Vistaと兼用のものだが、ソフトを多く必要としなければ、Mac専用の方が、その良さを
引き出せるのでは!という見方もある。あと一~二週間後に結論を出すが、その方が面白そうか?
それも時間が経ってみないと分からないのか? 自宅は、少し様子をみてからMacを入れるつもりである。
恐らく、一年後、いや数ヵ月後は、Macの熱狂的なファンになるだろう? まあ単純なものだが・・・
それにしても、現在使っているノート型のパソコンと、この薄型のデスクトップ型と、
これほど違うのには驚きである。ブラウン管とデジタルTVの差の違いと同じである。
ブログにしても、このMacにしても、進化はとどまることはない。
                      (。´_`)ノ ホナ!             
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2007年01月26日(金)
2124, 死んだ人に、もう会えない?
             <(_ _)> おはようございます!
義母が昨年の12月01日に亡くなって、もう49日以上が過ぎ去った。
家内を慰める言葉として、哲学者のエピクロスの「<われわれ>が生きているとき、死はそこになく、
死がそこにあるとき、<われわれ>は生きてはいない。だから死はわれわれに何のかかわりもない・・」
の意味を説明し、補足として、「一人称の本人の死は存在しないし、三人称の死は他人ごとでしかない。
二人称の死も実際のところ本人じゃない。死に慌てている、そして死に対し無知な自分がいるだけ。
死はあくまでも他人の昇天と周囲の悲しみを見て感じつくりあげた観念でしかない。実際は死んではいない」
といったところ、家内「でも、会うことがもう出来ないじゃないか」と素直な気持ちを吐露した。それに対し、
スラスラ出た言葉が、「でも、それはこれからのこと。唯心論じゃないけれど、思い出の中で会える。自分
の大部分は過去で出来ているし、過去は都合の良いように変えることも出来るが、間違いなく存在していた。
その存在こそ絶対であるし、消すことも無くなることもない。 もし死んだとしても、実は死んではいないし、
もう会えないということより、母親その人と会えたことの方が奇跡だし、その方を考えた方が良い。悲しい
のは解るが、死とは何かじっくり見つめ学ぶ機会と考えた方が良いんじゃないか」悟ったような答えで
あったが、考えてみたら哲学者の池田晶子の言葉のうけ売りの言葉。 しかしスラスラと出たのは事実。
『死』は人生の最大の関心事である。それも自分の母親の死は、自分そのものの死を考える機会になる。
両親が亡くなって、その直後の数ヶ月を過ぎてからは寂しい思いはなかった。
亡くなることによって、心の中心により深く住むようになった。そして心の底から感謝ができるようになった。
しかし、これは義母-二人称の死の話だが、実は自分のことでもある。まさに死そのものより、
「現在、いまここ、にある自分の存在」の意味と同じことをいっているのである。死を考えるということは、
自分が「いま・ここ」に、そして生きてきたことの不思議を考えることである。 亡くなる=無になるという
ことは有り得ない。「無にどうしてなるのか? 無いものに成るなど、ありえないこと!」
全くそのとおりで疑う余地は全くない。それが存在することの不思議につながる。
「何故いま・ここに、自分がこうして存在しているのだろうか?」不思議で不思議で、
まずそこから出発しないと・・存在とは何か?そして、その消滅とは?
                       ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
  ・・・・・・・・・・・
2006年01月26日(木)
1759, 閑話小題
          (●′∀`)σ )Д`○)★Ohayou☆
ー新手のおれおれ詐欺?ー
・友人A 氏の名をかたった「おれおれ詐欺?」の電話が自宅にあった。
一昨日の午後、自宅に友人A氏 の名前で「主人在宅ですか?」という電話が入った。
家内が声が違うので不審と思い、直ぐに切ったという。昨日友人A 氏に聞いたら、先週の金曜日に、
彼の前の会社の元部下B氏の自宅にも同じ時間に同じような電話があり、やはりB氏の奥さんに疑われて
電話を切ったという。私とその友人氏B は顔見知りだが仕事上の直接の繋がりは無い。
友人A氏の10年前の会社を名乗ったというから?A氏の現状を知らないとみてよい。
恐らく十年以上前にA氏と行った飲み屋?で渡したA氏の名刺の裏?に、会話の中から名前を知り書いたか、
あるいは私もB氏も(別々)に名刺を置いてきたのかもしれない。こういう仮説をたてるのは面白い!が。
直ぐ電話を切らないで、相手が何を狙ったのか聞いていたほうが面白そうだ。
新手のおれおれ詐欺だろうが、気楽に名刺も出せない時代になった。   ~旦_(‥ )ま、茶どうぞ!
ーうそー
日本語は面白い。その中で、人のためと書いて「偽」ーウソがある。
昔の人は深く偽善を見抜いていたのだろう!人が為すことは全て偽とも受け取れるが!
論語を黄色い声で読んで、その視点で(自分ではなく)他人を攻撃する輩を何人か知っている。
それでも勉強をしないよりましか?そういえば亡くなったが、茶坊主の経営評論家が、
論語を持ち出し片っ端から切り捨てていた。経営者は人格がまず要求される第一の要素だが。(*ノω<*)
                ヾ(*´▽`)ノ=з=з=з バイバイ!
・・・・・・・
2005年01月26日(水)
1394, 人間の成長角度 ー知人が面白い話をした。
「人間には、それぞれ上昇角度がある。それを早く見抜いてエリート教育をすべきである。
その角度は、よほどの事がない限り変わらない。変わるとしたら、大きな挫折か、大失恋かである。」
なるほど、と感心をした。ある共産党員が話していたとか。 中学校は選抜される前の最終の集団である。
(今は違っているケースが多いが)その時の成績の順位が、そのまま人生の優劣を決定している。
以前にも書いたことがあるが私の中学校の同級生を見ると、一番が慶応の教授(故人))、
二番が日本レコード協会の専務理事、三番が自衛隊の偉いさん?で、四番が私?で、大手損保の支店長、
中学の先生、その後が税理士になって?の税理事務所長(二代目だが)で、ー女性は省いたー成績で見ると
目立った人はいなかった成績の悪い順は書かないほうがよいようだ。??な人が殆んどである?
別に「慶応の教授がどうだ」ということはないが、生き生きしているかどうかで判断してもよい。
人間の成長角度は、その時に決まっていたのは事実である。大体が10歳で既に決まってしまっているが、
次の筋目の時期は、中学二年であろう。両親の質?の問題が、大きいのが最大の理由である。
その成長角度も、20歳で終わってしまうケースもあるし、40歳の場合もある。
大器晩成型もある。高校一年の時のクラスが担任の先生が素晴らしいこともあって、そのクラスから
東大、早稲田、慶応に多く合格した。しかし、東大は精神病で廃人、早稲田は自殺、・・・。
振り返ってみると、順調な人生の人は性格のよい人が多い。 そうでもないか?いや、そうだ!
反対に無事・長生きにかけるしかない人もいるが。老後は、これが一番か!しかし、これは傍迷惑になる?
ライフワークを持って、仕事とのバランスを保っている人が成長角度を保っているようだ。世間様の世界で
浮きしずみしている人は、下降角度になっているのが多いが。まあ、いいか!誰が見ているか解らない?
・・・・・・・・
2004年01月26日(月)
1027, 大人のワッペンー勲章の意味
「新リーダーの研究」          読書日記-1
「叙勲に辞退」が価値をもつ時代
飯塚昭男著の「新リーダーの研究」を図書館で借りて読んだが、なかなか内容があった。
目次の見出しだけ見ていても、ハッとする内容が並んでいる。
その中で『「叙勲に辞退」が価値をもつ時代』というのが良い。叙勲は春と秋の定例行事になっている。 
批判をしたいが、「貰えないからやっかんでいる」と思われるから、誰も批判しないで黙っている。
著者は、誰もが普段思っていることを辛らつに書いているのが良い。
私の意見と、著者の意見をミックスして書いてみる。責任転嫁もできるからよいが、著者は辛らつである。
・「大人のワッペン」とズバリ言ってのけている。貰らって涙をこぼしている姿は可愛いといえば可愛いが。
・大体が叙勲で人の価値が決められるというのか。 どういう規準でランクをつけるというのだ。
 詐欺まがいの元首相と一生を教育や福祉に捧げた人を含めてどういう規準でランクの上下を決めているのか。
総理府の勲章局というのがあって、「全銀連盟」や「鉄鋼連盟」 などの業界団体が推薦者をあげて、
 各々の所轄官庁に書類を提出。その中から選ばれるという。要するに官民の談合で決められるという。
 それを総理府などの長官会議で決めたものを、総理がサインをして決定する。
 それは政財官の癒着の温存の元凶になっているという。ーこの本を読んでマスマス馬鹿馬鹿しくなってきた。
・心ある財界人はほとんど辞退をしているという。政治家は喜んで、いや自分から働きかけて哀願するという。
 政治家は国民を騙す以前に自分を騙しているから、ワッペンで自己証明をしないと御祓いができなくなる。 
 政治ごろの鑑札?は、言い過ぎか。
  文化勲章は認めてよいのではというが、人間国宝というのがあるから、充分である。 さっきも
書いたが国が、いや役人がそれを決めるとはオコガマシイ。天皇制の一つのフレームなのだろう。
 また経営改革は自己改革という言葉にハッとした。会社の転換期に入っているので、
 一番実感している。 一番の抵抗勢力は、自分の固定観念と甘さである!
・・・・・・・
【新】リーダーの研究 ◇飯塚昭男
<内容紹介>
 ー以下、字数の関係でカット2009年01月25日ー
(次回は、この目次の小項目と、その解説を書き込む予定)
  ・・・・・・・ 
2003年01月26日(日)
662, 「他人の血で自分の傷口を洗うな!」
この言葉を初めて聞いた時、その意味をしばし考えてしまった。相手を傷つけてしまう事は
「何らかの意味で自分の問題を相手に投影してしまった」という事でないか。いじめっ子は家庭の不和の子
が大部分だ。そのトバッチリを学校で弱い相手を捜して攻撃する卑劣の行為だ。これが「他人の血で自分の
傷口を洗おうとする行為」の典型だ。あと戦前の日本軍の古参兵の新兵虐めもそうだった。
「新兵の時の虐めをやりかえす」という行為で傷口を洗っている愚劣の行為だ。必要悪の部分もあるが。
傷ついて膿を心に持っている精神症(精神病)の人も、その苦しさのあまり血の匂い嗅ぎつける。
「自分の人生失敗だった」という敗残者もこういう傾向が強い。精神に深い傷を持っている。
といって正常の人でも、誰でもその傾向はある。その軽い症状が「他人の噂しか話す内容を持たない人種」だ。
教養を積んでこなかったオバちゃんだ。男ー子狐もいるが。これには大きな落とし穴がある。
他人の血で傷を洗うという事は、その傷を目先癒すが逆にどんどん傷を深くし、さらに黴菌が入ってくる。
それこそ「無知の涙」である。他人の事といっていられない自分の問題だ。誰もが心の傷を持って
知らないうちに他人を傷つけている。そして傷つけてきた??・・!それに気がついているかどうかのだが。
「恨んだ相手は高いびき」その相手になっているのではなかろうか?
・・・・・・・・・
 2002年01月26日(土)
312,書くということ
書くということの意味とは 毎日随想日記を書き続けて、いろいろの事にきずく。
書くということは、話すということより、ずっと多くの事を、意味を感じるようになってきている。
この20年間社内報に隔月に文章を書き続けて、その継続も含めて意味を感じるようになりました。
その時々のメルクマールだ。あの時アア考えていたのだ、こういう本を読んで感銘していたのだと。
それが全くやり続けてなかったら何が残っていたのだろうか。書けば消えずにそのまま残っている。話すと
いう表現手段と、文章化の手段と一見小さな相違が、継続という時間の中で無限に近い相違を引き起こす。
つくづく書き残していてよかったと実感している。時間が経つとその自己表現が、自己認識になってくる。
したがって、それに書き加えていけば、自己認識が深まる。そして自己吟味できるようになる。実をいうと、
そのためにホームページにさらし、自己表現のレベルの維持と、自己顕示のそれを原動力にして書き続けて
いるのです。地方にいると例の「子狐の群れ」の中で自分を見失いがちになります。
見失わない為に、これは最低限必要なシャワーでもある。 ー自己詭弁,正当化もいいとこ?
まずは書き出す、そしてそれに筋を通す、そして客観化する、そして深めていく行為である。
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1月26日 日曜日 1969年
12時起床。 市川さんと食事に行く。この人、理系がお医者さんのお守りの営業をさせられているためか、
理詰めで社会を理解しようとしている。人間の、いや社会の、いや自身の嫌らしさを知らない。
その後読書をする。夜、レポートの作成に入る。次にマーケッテングのレポートを作成。
夜半の3時に就寝。今は卒業をする為の集中が必要だ。