* ここは『どん底』渋谷坂
 ネット検索でみつけた武田鉄矢の、仄々?とした『どん底』の逸話が良い。
『あ〜、これが、どん底って奴か』と思うこと屡々。ところが、次々とやって
くる難関に、それが何もどん底でなかったことに気づかされた。学生時代に
カーネギーの『道は開ける』を読んでいたことも、20,30歳代の難題を切り
抜けるヒントになっていた。「不安だったら、より悪い想定をしろ。自ずから
対策の知恵が浮かんでくる!半端な不安に押しつぶされないこと!」
 大家族の末っ子のプラス・マイナスそのままの要素が身にかかってきた。
私の場合、その都度、必ず人生のヒントを得ていた。 次つぎと思いも
よらない難問が立上り、無我夢中で立ち向かう。中心点さえ外さなければ、
何時の間にか解決する。そこにあるのは、寂寞感と、人の温かさ。
ある時は、新約聖書への邂逅。ある時は大本教出口王仁三郎の教え。
それらを経験する度に、勘どころが解ってくる。 
 ――
   ー武田鉄矢の< 何を?つったら『ここ、どん底』 >―
 「どん底」のキーワードで検索して出てきた何とも味わい深い話。
振りかえみれば、人生の妙は、どん底の時節にヶ躓いた石の痛さの中に…
大学浪人の時とか、金沢の武蔵が辻の店で沈みこんていた時に、優しい声を
掛けられフラッとした刹那に、<何も反応できなく、見過ごすしかない失意の
自己嫌悪とか…> しかし、それが、本当に「どん底」だったのだろうか?
と最近、疑問に思うようになっている。しかし、その失意の中からマグマが
湧出てくることも確か。 〜武田鉄矢どん底の逸話とは…〜
≪ 〜海援隊で仕事がほとんどない頃、メンバー3人で「売れっ子ごっこ」を
 やっていた。たまに入った仕事終わりに「この後の予定が入っていますから」
と言ってダッシュでスタジオを飛び出していく芝居をしていた。  
【皿洗いのバイト帰りに妊娠7か月の女房と笑いながら登った貧乏坂】
あれも一種の女房の芝居かもしれないけど、紅白を出た次の年にまったく仕事が
無くなってさぁ、給料4ヶ月間無いんだ。「いやぁ、こりゃダメだな」と思って
もうホントに忘れもしないけど今でも。青山学院を抜けてコカ・コーラの本社が
ある坂道があるのよ。そこに来た時に女房が突然、真っ暗い‘みそかの闇’
まぁ正月になってたけど、上りながら『よぉーく見とこう』って言いだしたのよ。
 で、「何を?」つったら『ここ、どん底だから』って。≫
 ――
▼ 私にとっての、どん底は長岡高校時代。一年後半から鼻炎になって、机に
 座ると頭がボーッとなり、教科書が読めない事態に。耳鼻科には通っていたが、
誰にも相談できず。卒業後、再度、手術を受けたが… そして大学浪人に。
「あの男、実はバカなんだ」という誹謗を度々、耳にするが、哲学の始祖の
ソクラテスが、<先ず自らの無知を知ろ!が第一歩。それを前提に、心を開襟し、
三者の知恵を引出しなさい。要するに対話の蓄積。それは書籍の中の人物も
含めて…>  世間様とは、その知識を持ち得なかった人たちの総称。
だから、今さら相手にしないこと。誰もかも、『どん底』は、錯覚。
金沢で混乱の極みの会社で、沈んでいた時に、大本教の教えにすがっていた時、
内語で、『何だ御前、金沢まできて落ち込んでいるのは何ゆえ? この惨めさ
こそが、私にとって最善の御膳立てではないか。考えを一転し現実を見直せと
いう天からの教え。まず同僚に優しく誠実に接すること。そして、先日、耳に
残った浅野氏の「自己能力の限界の設定」から、踏出すべし』 
チョットした改心で、現象がまるで違って見えてくるから不思議。人間は知った
こと、気づいたこと、経験をしたことしか知らないのである。自らの範囲で世界
を決めているに過ぎないだけ。どん底で、その程度の浅瀬でしかない、己の底の
浅さを知るべし。誰もが出会う死神の到来の恐怖。どん底も何もあったものじゃ
ない…と。 ドン底でなくて、トン足ですか。 え、あれが? そうです!
・・・・・・
5410,新年に 〜貧乏の性分
2016年01月06日(水)
   * 貧乏の性分  〜『貧乏の神様』柳美里
 芥川賞の売れっ子作家の柳美里の本を、図書館や書店でみかけていた
ため、その印税たるや常識的にみて数千万は軽く超えていると思っていた。
ところが、預金ゼロ、電気光熱代の支払いも窮しているという内容である。
 私を鑑みると、幼児の頃から商売で苦労していた両親をみていたことと、
その両親から子守唄のように「金の重要性」について、聞かされていた。
特に節約と、万一の備えとしての長期的預金の必要性が、人生の基本と
インプットされてきた。その割りに、最後は、この様だが、総額の15%前後
を家内名義の給与として40年近く積立をしていた。(残りの85%は、使う
ことにしてきた)。それが、5年前の節目時の命綱になったいた。
「貧乏の性分」の逆を考えると、「節約、長期預金、小銭を大事に扱う」
になる。金を敵のように扱えば、返り討は至極当然。 〜その辺りから〜
≪ 2012年3月16日からは南相馬市役所内にある臨時災害放送局南相馬
 ひばりエフエム」で、毎週金曜日「ふたりとひとり」という番組の
パーソナリティを務めています。3月6日現在で第143回まで放送されました。
 この仕事は、無報酬です。これからは、交通費も宿泊費も食費も支給
されません。その経費が年間いくらに上るのかを計算したことはありません。
自宅に1万円だけ置いて、5万円を持って南相馬に1週間滞在する、という
ような生活を続けているのです。 非常識だと思います。 けれども、
書くことを仕事に選んだ18歳の時から金銭的や時間的には無理はしても、
自分の性分や生き方には無理ない仕事をしようと決めたのです。・・(略)
 この15年間、貯金をしたことはありませんでした。
お金の使い方、金銭感覚は、両親から受け継ぐものの一つかもしれません。
 わたしの父と母は、ほぼ年子で4人の子どもを拵えましたが、ただの一度も
貯金をしませんでした。父はパチンコ屋の釘師で高給取りでしたが、競馬や
ポーカーや将棋などの博打で給料を摩って、家にはお金を入れませんでした。
生活費を稼ぐために母はキャバレーのホステスとして夜の勤めを始めた
のですが、給料日前には困窮を極め、白飯に緑茶や麦茶をぶっかけただけの
お茶漬けやパン屋からタダでもらってきたパンの耳などで食い繋ぎました。
 わたしの父母の両親も貧乏人でした。それこそ親の敵のように父と母が
散財を繰り返していたのは、収入が支出を上回ることに罪悪感のような
ものを抱いているのではないかと思わざるを得ないのです。
 倹約や貯金は、お金持ちの習慣なのではないかという気すらします。
つまり、そういう家庭内の習慣を子孫や社員に文化として伝授したから、
お金持ちになったのではないか、とー。
 父親に刺身の小皿に醤油が残っているのを見餐められて、「自分の使う分を
見越して醤油を出せないような奴はまともな経営者になれん!」と殴られた、
というある大会社の社長の幼少時のエピソードを思い出したりもします・・≫
▼ ネット検索によると、柳美里は「無頼派の系譜の作家」と評されていて、
 小説ネタには、この性分があればこそ。としても、これは、つらい性分。
在日朝鮮人の大陸的気質もあるのか? 三代続いた家族の金銭感覚は、
一般人とは少し違うようだ。病気、事故とか、寝たきりになった時に、
如何するのだろう。他人事ではないか? 事業を立ち上げる度に、
「もし、失敗したら、如何する?」の内語も一緒に立ち上がる。30年、40年
かけてきた万一の備えも、この不安、恐怖から出てきた知恵。一般的にいえば、
「消費社会は、収入の2割増しの欲望を掻き立てる。しかし、日本人は、
2割を預金か、投資にまわす性向がある」。 固定社会の島国の知恵だろう。
・・・・・・
4680, 偶然からチャンスを見つけだす能力
2014年01月06日(月)
  ー偶然からモノを見つけだす能力―「セレンディピティ」の活かし方
                          ー沢泉 重一(著)  
  * 人生は偶然を織りこむ絨毯づくり!  
 人生を振返ると、出会った人、出会った出来事が果たして偶然だったか、
必然だったのか、考えさせられる。偶然に機会を見出すためには、目指す夢と
目的が必要になる。そこに機会を見出すには素養と準備が前提だから。
その偶然からチャンスを見出す能力「セレンディピティ」は、イスラムの寓話
セレンディップの三人の王子」が語源。ドラゴンを退治する巻物を探すため、
自慢の王子が送り出される旅の途中で、多くの危険と苦労を味わうが、
そのつど判断力を働かせ、それぞれ理想的な姫と知りあい、幸せに暮らした
という神話の原型が、そこにみてとれる。英和辞典には「当てにしなかった
ものを偶然うまく発見する才能」とある。 ー内容紹介とレビューからー
【 偶然のチャンスをいかに生かすか、見出す秘訣がここにある。
 世界的発見の多くは、"偶然の所産"であった。 古い寓話に由来する言葉
 <セレンディピティ>は、偶然のチャンスを生かす力を指すキーワードとして、
 科学者や先端的ビジネスマンの間で高い関心をよびつつある。】
  ー読者プレビュー 
●【「セレンディピティ」は、狭い意味では「探していたものを、他を探して
 いるときに偶然に見つける能力」。この本ではより広く「偶然を見逃さずに
成功につなげる能力」という意味で使っている。 著者が編み出した
「偶察力(偶然を察知する能力)」という言葉は、しっくりくる。
面白いのは、セレンディピティを高める方法論。世界的革命をもたらした
発見の共通点をあげたり、トマス・クーンの唱えるパラダイムシフトの関係や、
シンクロニシティとのちがいなどを述べている。さすがセレンディピティ研究
の先駆者が書いたものだけあり、これは発想に役立つと思うところが多かった。
とくに「7 セレンディピティの向上」の章では、意図的にセレンディピティ
高めるための一連のシステムを紹介している。偶然という現象について述べた本
アーサー・ケストラーなどがあるが、この『偶然からものを見つけだす能力』
はその偶然を人間の力によってうまく引き出して利用しようというもの。
「自分にできるかも」という期待感をもたせてくれる。また、偶然がともなう
ブレークスルーは、ともなわないよりも大きな成果をもたらしうるというから、
セレンディピティを高めたい気持ちは高まる。】
●【「偶察力」という言葉に置き換えて、これを一種の「能力」とし、仕事に、
日常生活に、趣味に言葉遊びに、知的仕掛けとして使っていこう、という話。
驚嘆すべきは、著者の博覧強記ぶり。セレンディピティを巡って、起源、歴史、
 古典、映画、科学論、科学史、書籍、新聞、雑誌、ネットなど、おおよそ
あらゆる情報ソースを駆使し、ちょっとした日常の場面で、どんな場合にどう
適用していくのがおもしろいのか、を、わかりやすく書いた文章です。】
▼ 必死に捨身で何かを目指していると、その何かより、プロセスでプラス・
マイナスの機会に出くわす。そこが、分かれ目で信念が試される。人生の節目
には思いもよらない機会が隠されている。 そこで、運命を恨むか、他者の
中傷に汚れるか、自分の信念を見つめ直し、新しい一歩にするか、その人次第。
その意味で、この言葉は人生を振り返るに、考える糸口になる。 節目は、
順境のアップスケール(脱皮)より、逆境の破壊の状態の方が多い。その時、
思いもよらない学び、チャンスが現れる。私にとって、現在の節目はベスト?
それが「セレンディビティ」の一言に凝縮。遇察力が飛躍的に向上、御陰で
様々な見えてなかったことが鮮明に見えてきた。
 人生は短し!より濃厚に日々を生きろ!ということ。 
・・・・・・
6142,読書日記 〜「続・下流老人」 ー4 問題は、最期10年を如何に?
2018年01月06日(土)
         <続・下流老人 一億総疲弊社会の到来・2016/12>
   * 深刻な地域格差
 20年近く前になるか、当時、経営していたビジネス・ホテルのフロントに
フランス帰りの20歳後半の料理人が、「就職先が決まるまで」と準社員として
勤務していた。そこに片田舎の新卒女子が同僚として働いている内に親しくなり、
結婚。 『フランス帰り』に憧れた純朴な娘が一方的に惚れた結婚と聞いていた。
そして妊娠、退社をしたが… フランス帰り料理人は、務め先が見つからず、
そのまま勤務をしていた。が、生活が成りゆかず、離婚。嫁は子供をつれ出戻り
のコース。ここまでは、どこにもある話。後で聞き知ったのが、その後、彼女は
元亭主に子供の引取りを依頼、第二の人生を歩みだしたが、その苦悩は如何ばかり。
「時間の経過とともに後悔が膨らむのは自明」だが、ここで見てとれるのが… 
知識・経験不足と、貧困問題。今どきの日本人の3組に1組、アメリカで2組に1組、
西欧では3組に2組の割で離婚というが。当然、そこには苦悩と混乱が発生する。
 大学時代の同級会で、嫁がルーマニア人という男の愚痴。さすが全国区の話題。
<金銭にシビアにも程がある。同じ欧州人でも、貧しい国の人間は、人間性まで
 貧しい。とにかく卑しい。アジアならタイやベトナムは農業・漁業が盛んで
豊かだが、ラオス、フィリピンは違う。姿かたちは最初のうち>と息巻いていた。 
<日本は太平洋ベルトラインなど大都市は比較的豊かだが、そこを外れた地方は… 
とりわけ過疎地域は…>。 淀みが水場を悪くするというが…。
 参考になるのが自殺率。上位10県を高い順にみると、秋田、青森、岩手、島根、
新潟、宮崎、山形、高知、和歌山、佐賀。 最も高い 秋田県の10万人あたりの
自殺数42.1は世界第1位のリトアニアの44.7(2002年)より低いが、世界第2位
のロシアの38.7(2002年)を超えている。私の住む新潟県は5位になる。5年前に
女性がワーストになっていた。 下位5県を低い順に あげると、奈良、神奈川、
徳島、千葉、愛知。比較的、気候が穏やかで、大都会に近隣して豊かである。
・・・・・・
5045,生と死をめぐる断想  ー2
2015年01月06日(火)
             『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
   * 頼藤和寛 〜にもかかわらず、生きる
 『人みな骨になるならば』頼藤和寛著 の書評を数年前、ここで取上げた。
底しれないニヒリズムと、「にもかかわらず、真摯に生きる」頼藤の姿に
心が動かされた。ここで岸本は、「だから」「しかるがゆえに」の換わりに、
「にもかかわらず」の頼藤の生き様、言葉に励まされる。ーその辺りよりー
≪ 願望に基づく世界観の構築を、彼は拒む。自らの避けられない死際にしても
その立場を徹底する。その姿は、認識の鬼とでも形容したくなるような、ある種
の凄みを持っている。医師を続けてきた頼藤は患者から「何も悪いことをして
いないのにどうしてこんな病になったのか」という抗議を幾度も聞いてきた。
 彼は述べる。科学的に研究をすれば、善人と悪人とで罹患率や平均余命などに
有劣の差はないと、証明されてしまう。心理学は善悪に関して死後の因果応報を
信じがちな人ほど願望充足的な推論や希望的観測を多用するという実験結果を
つきつけてくるかもしれないと。「自然現象に人間的な道理は通用せず、
来世で辻褄を合わせようとする世界観は心理的な自慰にすぎないことを強く
示唆している」。(頼藤和寛『人みな骨になるならば』)
・おそらく世界の実相は、人間の都合とは無関係にある。
 「このことを、実は、何千年もおんちょうのあいだ人類は怖れてきた。
 われわれは幸福がなにかの恩寵によるもので、耐え難い災厄ですら
 なんらかの意味をもつと信じたがった」。
・「世界には、ニヒリズムを突き崩せるような物証は何もない。なぜなら
 われわれは、自分が信じたいように世界を観たのではなく、人間に可能な
 かぎり禁欲的に宇宙のありのままを見据えてきたからである」 
しかし、前向きに生きれば治癒につながる、「だから」前向きに生きるとする
なら、その基盤は脆弱だ。「前向き」でいたのに亡くなっていった人は、周囲を
見渡しただけでもどれほどいることか。治癒を期待し前向きに自分を保つなら、
それでも再発進行した場合、「ならばどう生きても同じだ」と投げ出すことに
なりかねない。「だから」「ならば」「しかるがゆえに」の論理の危うさを
感じていた私に、「にもかかわらず」の哲学は頼もしく思えた。世界には
説明のつかないことがたくさんある。説明不可能性に耐えよ。そう著者に
言われている気がした。「何千年ものあいだ人類は怖れてきた」と彼が言う
世界の実相。人間が受け入れやすいようその上をおおっていたべールを、
近代科学がはぎとって暴いてみせたところでなお、人々が怖れているならば、
世界の実相がやはり「怖れるに足る」ものだからだろう。何千年も怖れられ
続けてきたものに、たまたま近代以降に生れたからといって、人間がひとり
丸腰で対峙することが、果たしてできるものだろうか。自分がニヒリズム
どこまで貫けるだろうかという疑問もある。・・≫
▼ 死の淵から生還した人にとって、「にもかかわらず、生きる」より、
 「にもかかわらず、生きている」ことになる。死は、特に己の死は、
 直視できない永遠の課題。だから、宗教が必要になる。神の御国に
帰っていくイメージである。生くさい恐ろしい死のイメージを、長年かけ、
優しい神様がいる天国のイメージへの転換が必要になる。死んでしまえば、
それまでよ。にも関わらず、彼岸には、あの世が待っているイメージ。
 で、以下の三年前の内容に繋がっていく! 丁度、あの修羅場?の最中
 ーー。
2011/03/18
3279, 人みな骨になるならば −1
「人みな骨になるならば」 頼藤和寛 著
 なかなか面白い人生論である。 副題がー虚無から始める人生論ーである。
初めから終わりまで、「人はみな骨になるならば」の虚無の思想が、どの言葉の
後ろにピッタリと付いている。といって、読んでいて気分が悪くならないのは、
本人の持っている温もりのためか。この本を書き終わった数年でガンが発見され
亡くなった。そのプロセスを書きのこした本『わたし、ガンです ある精神科医
の耐病記』も出されている。「斯う居るも 皆骸骨ぞ 夕涼み」(一茶)の句が、
この本のテーマである。そして次から次へと繰り返される虚無思想。
・「誰しも認めたがらないことではあるが、おそらくわれわれ一人一人の
 人生が一種の無駄である。」とか。
・「我々には何十年という時間が与えられてしまっている。・・どうあがいて
 みたっって、逃れられない人生という檻のなかに?我々は産み落とされて
 しまったからには、檻の仕組みや外側がいかようであれ、にもかかわらず、
 その檻の中で 一舞いしてみせる?しかないではないか」
・「人生に、意味なんて無い。けど、何かに意味を見出さないと、人は生きて
 いけない。だから、自ら意味を作る。それはまるで、無神論者が祈る神の
 ようなものだ」とか。宇宙人?の視線である。
   ーここで「エゴ・トリップ」という幻想を紹介している。
【「わたしが生きようが死のうが大したことは、といった現実は非常に
 不愉快な現実である。たぶん、宇宙から見れば、一匹のゴキブリや一本の
松が生きたり死んだりするのと大して変わりない。この現実から逃れるために
人間は実にさまざまのことをしてきた。われわれの自我は、そのような酷薄な
現実に堪えられないようだ。それに堪えるため人間は自分の意味を膨らませる
ため、自分を誇大視するか、あるいは自分が属する何かを大層なものにするか、
に心をくだいた。・・自分の存在を「なにものでもない。」という実態から、
「なにものか」であるような幻想へと昇格させようという営みの全てを
エゴ・トリップという。自分を膨張させようとする、あえない試みである。
これは子供の背伸びから、青年の客気、男女の虚栄や見栄、年寄りのあがきに
至るまで、およそ人間の煩悩や業の全てに浸透している動機のひとつである。
宗教的な修行や脱俗ですら、それによって自分を特別なものに昇格させたい
という目論見が透けて見える。 】
 ー考えてみれば、われわれの生活の中で何らかの努力をもった営み全てが、
このエゴ・トリップと考えると、人生そのものがエゴ・トリップゲームになる。 
しかし、秘境ツアーで大自然の美しさや広大な姿に触れ、感動した経験を多く
持つ身にとって、それはエゴ・トリップとは違う、と思うが、どうだろうか。
 特別に昇格したいのでなく、対象に自分が溶け込んでしまう経験そのものが
良いからである。すべて夢の中 か〜 そして、すべてがエゴ・トリップ
でしかないのか? そう思うと気が楽になるが!
・・・・・・
5775,閑話小題 〜あと10日で71歳
2017年01月06日(金)
  * あと10日で、71歳ですか!
 50歳、60歳と峠を越えてきたが、70歳代の峠からの老化の日々は甘くない。
社会的には、65歳時の廃業?を境に背負っていた責任からの解放を実感している。
肉体的に日々、足腰が弱っていくのが分かる。50年以上の腰痛持ちの身に老いは
弱点をついてくる。それに加え、同世代の人たちが、次々と亡くなっていくのも、
この年齢の風景。「背後に感じていた死神の気配が、70歳を超えると、前面から
迫る感じになる」というが、成るほど! 何はともあれ「好奇心」は人一倍ある。
アンドロイドTVと、パソコン、タブレットPCが、その好奇心を満たせてくれる。
 それにしても71歳の年齢の自分が信じられない。TVで、大病などで老け気味
の60歳過ぎの人を見て、この人より自分が10歳も年上?と、愕然とすること屡々。
スポーツジムは、様々の年代の人たちの陳列の場? 若い人から見れば、かなり
の年齢である。生きていればこその喜びも哀しみもある。 それに加え、ネット
などの情報端末の進化した機器と、そこから入る知識を得るだけでも面白い。
 食欲も衰えてない。何を食べても美味しい。美食も、過分すぎるほど満足した。
そのためか、牛丼、回転ずしなどのB級グルメも飽きずに美味しいと思える。
あと4年で後期高齢者の仲間入りだが、その辺りが鬼門か。 非日常も良いが、
日常こそ味わいが隠れている。夕暮れ時のアカネ空の時節がベストということ…

つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

 他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/549/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
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 昨日、初めて今年に入ってから外出。
酒とツマミの買い出しに… TV、パソコン漬けの日々だが…
そろそろ鈍った身体を鍛え直さなければ… 



・・・・・・
・・・・・・

5045,生と死をめぐる断想  ー2
2015年01月06日(火)
             『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
   * 頼藤和寛 ~にもかかわらず、生きる
 『人みな骨になるならば』頼藤和寛著 の書評を数年前、ここで取上げた。
底しれないニヒリズムと、「にもかかわらず、真摯に生きる」頼藤の姿に
心が動かされた。ここで岸本は、「だから」「しかるがゆえに」の換わりに、
「にもかかわらず」の頼藤の生き様、言葉に励まされる。ーその辺りよりー
≪ 願望に基づく世界観の構築を、彼は拒む。自らの避けられない死際にしても
その立場を徹底する。その姿は、認識の鬼とでも形容したくなるような、ある種
の凄みを持っている。医師を続けてきた頼藤は患者から「何も悪いことをして
いないのにどうしてこんな病になったのか」という抗議を幾度も聞いてきた。
 彼は述べる。科学的に研究をすれば、善人と悪人とで罹患率や平均余命などに
有劣の差はないと、証明されてしまう。心理学は善悪に関して死後の因果応報を
信じがちな人ほど願望充足的な推論や希望的観測を多用するという実験結果を
つきつけてくるかもしれないと。「自然現象に人間的な道理は通用せず、
来世で辻褄を合わせようとする世界観は心理的な自慰にすぎないことを強く
示唆している」。(頼藤和寛『人みな骨になるならば』)
・おそらく世界の実相は、人間の都合とは無関係にある。
 「このことを、実は、何千年もおんちょうのあいだ人類は怖れてきた。
 われわれは幸福がなにかの恩寵によるもので、耐え難い災厄ですら
 なんらかの意味をもつと信じたがった」。
・「世界には、ニヒリズムを突き崩せるような物証は何もない。なぜなら
 われわれは、自分が信じたいように世界を観たのではなく、人間に可能な
 かぎり禁欲的に宇宙のありのままを見据えてきたからである」 
しかし、前向きに生きれば治癒につながる、「だから」前向きに生きるとする
なら、その基盤は脆弱だ。「前向き」でいたのに亡くなっていった人は、周囲を
見渡しただけでもどれほどいることか。治癒を期待し前向きに自分を保つなら、
それでも再発進行した場合、「ならばどう生きても同じだ」と投げ出すことに
なりかねない。「だから」「ならば」「しかるがゆえに」の論理の危うさを
感じていた私に、「にもかかわらず」の哲学は頼もしく思えた。世界には
説明のつかないことがたくさんある。説明不可能性に耐えよ。そう著者に
言われている気がした。「何千年ものあいだ人類は怖れてきた」と彼が言う
世界の実相。人間が受け入れやすいようその上をおおっていたべールを、
近代科学がはぎとって暴いてみせたところでなお、人々が怖れているならば、
世界の実相がやはり「怖れるに足る」ものだからだろう。何千年も怖れられ
続けてきたものに、たまたま近代以降に生れたからといって、人間がひとり
丸腰で対峙することが、果たしてできるものだろうか。自分がニヒリズム
どこまで貫けるだろうかという疑問もある。・・≫
▼ 死の淵から生還した人にとって、「にもかかわらず、生きる」より、
 「にもかかわらず、生きている」ことになる。死は、特に己の死は、
 直視できない永遠の課題。だから、宗教が必要になる。神の御国に
帰っていくイメージである。生くさい恐ろしい死のイメージを、長年かけ、
優しい神様がいる天国のイメージへの転換が必要になる。死んでしまえば、
それまでよ。にも関わらず、彼岸には、あの世が待っているイメージ。
 で、以下の三年前の内容に繋がっていく! 丁度、あの修羅場?の最中
 ーー。
2011/03/18
3279, 人みな骨になるならば -1
「人みな骨になるならば」 頼藤和寛 著
 なかなか面白い人生論である。 副題がー虚無から始める人生論ーである。
初めから終わりまで、「人はみな骨になるならば」の虚無の思想が、どの言葉の
後ろにピッタリと付いている。といって、読んでいて気分が悪くならないのは、
本人の持っている温もりのためか。この本を書き終わった数年でガンが発見され
亡くなった。そのプロセスを書きのこした本『わたし、ガンです ある精神科医
の耐病記』も出されている。「斯う居るも 皆骸骨ぞ 夕涼み」(一茶)の句が、
この本のテーマである。そして次から次へと繰り返される虚無思想。
・「誰しも認めたがらないことではあるが、おそらくわれわれ一人一人の
 人生が一種の無駄である。」とか。
・「我々には何十年という時間が与えられてしまっている。・・どうあがいて
 みたっって、逃れられない人生という檻のなかに?我々は産み落とされて
 しまったからには、檻の仕組みや外側がいかようであれ、にもかかわらず、
 その檻の中で 一舞いしてみせる?しかないではないか」
・「人生に、意味なんて無い。けど、何かに意味を見出さないと、人は生きて
 いけない。だから、自ら意味を作る。それはまるで、無神論者が祈る神の
 ようなものだ」とか。宇宙人?の視線である。
   ーここで「エゴ・トリップ」という幻想を紹介している。
【「わたしが生きようが死のうが大したことは、といった現実は非常に
 不愉快な現実である。たぶん、宇宙から見れば、一匹のゴキブリや一本の
松が生きたり死んだりするのと大して変わりない。この現実から逃れるために
人間は実にさまざまのことをしてきた。われわれの自我は、そのような酷薄な
現実に堪えられないようだ。それに堪えるため人間は自分の意味を膨らませる
ため、自分を誇大視するか、あるいは自分が属する何かを大層なものにするか、
に心をくだいた。・・自分の存在を「なにものでもない。」という実態から、
「なにものか」であるような幻想へと昇格させようという営みの全てを
エゴ・トリップという。自分を膨張させようとする、あえない試みである。
これは子供の背伸びから、青年の客気、男女の虚栄や見栄、年寄りのあがきに
至るまで、およそ人間の煩悩や業の全てに浸透している動機のひとつである。
宗教的な修行や脱俗ですら、それによって自分を特別なものに昇格させたい
という目論見が透けて見える。 】
 ー考えてみれば、われわれの生活の中で何らかの努力をもった営み全てが、
このエゴ・トリップと考えると、人生そのものがエゴ・トリップゲームになる。 
しかし、秘境ツアーで大自然の美しさや広大な姿に触れ、感動した経験を多く
持つ身にとって、それはエゴ・トリップとは違う、と思うが、どうだろうか。
 特別に昇格したいのでなく、対象に自分が溶け込んでしまう経験そのものが
良いからである。すべて夢の中 か~ そして、すべてがエゴ・トリップ
でしかないのか? そう思うと気が楽になるが!
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5775,閑話小題 ~あと10日で71歳
2017年01月06日(金)
  * あと10日で、71歳ですか!
 50歳、60歳と峠を越えてきたが、70歳代の峠からの老化の日々は甘くない。
社会的には、65歳時の廃業?を境に背負っていた責任からの解放を実感している。
肉体的に日々、足腰が弱っていくのが分かる。50年以上の腰痛持ちの身に老いは
弱点をついてくる。それに加え、同世代の人たちが、次々と亡くなっていくのも、
この年齢の風景。「背後に感じていた死神の気配が、70歳を超えると、前面から
迫る感じになる」というが、成るほど! 何はともあれ「好奇心」は人一倍ある。
アンドロイドTVと、パソコン、タブレットPCが、その好奇心を満たせてくれる。
 それにしても71歳の年齢の自分が信じられない。TVで、大病などで老け気味
の60歳過ぎの人を見て、この人より自分が10歳も年上?と、愕然とすること屡々。
スポーツジムは、様々の年代の人たちの陳列の場? 若い人から見れば、かなり
の年齢である。生きていればこその喜びも哀しみもある。 それに加え、ネット
などの情報端末の進化した機器と、そこから入る知識を得るだけでも面白い。
 食欲も衰えてない。何を食べても美味しい。美食も、過分すぎるほど満足した。
そのためか、牛丼、回転ずしなどのB級グルメも飽きずに美味しいと思える。
あと4年で後期高齢者の仲間入りだが、その辺りが鬼門か。 非日常も良いが、
日常こそ味わいが隠れている。夕暮れ時のアカネ空の時節がベストということ…

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3573, デジタル進化論

2011年01月06日(木)

 日経新聞がデジタル進化論の連載を始めた。ークラウドが迫る転換ーがサブタイトルである。
iPodの登場から10年、これがiPhone、そしてiPadと、直感操作型情報機器へ広がりを始めてきた。
パソコン登場から30年が経ち、次の展開として、スマートフォンとか、タブレット式パソコンなどに
軸足を移し始めてきた。iPhoneの登場から僅か4年で、パソコンの売上げ台数の3億8千万台を今年中に
直感式情報機器が上回るというから、尋常ではない。特にタブレット式無線パソコンが、この数年で
爆発的な普及が予測される。 シャープもキーボード付パソコンから撤退を表明、タブレット端末に集約、
電子書籍サービスで稼ぐ事業モデルに転換する。「アプリ」もパソコンソフトと同じぐらい揃っており、
数十万本もあるというから、これも成功すると見てよい。 ソニーも、ドコモも、auも、それぞれの
特性を生かした戦略で進出を始めているので、数年で、市場は激変する。 昨年だけでアップルは。
iPhoneを3300万台、iPadを1800万台を売ったという。今後、世界中の大手が直感式情報機器の
販売に入るため情報化は更に進むことになる。そのため情報の量と質が格段にアップする。
それと比例して世界に情報が行き渡り変化を加速させることになる。 それが、更なるグローバル化
平準化、一極化が進む。そうこう考えると、時代は激変を止めることは不可能といえよう。デジタル
といえば、数ヶ月前に入れたテレビである。値段は、一般の二倍以上したが、テレビの画質、音質、
機能等は、明らかに数倍のもの。で、何が変わったか?というと、映像対象の内容が違って見えるように
なったこと。これらデジタル化は、人間のあり方まで変えていく、良いにつけ、悪いにつけ。
 経済も含めて今後10年で世界は、日本は、どのように変化していくのだろう?10年前からみて現在は
想像を遥かに超えている。 問題先送りになってしまう大きなマイナスもある。
 「心配ごとは、明日に!明日はこないのだから」で、手遅れに?か。
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3198, 句読点とは妖精のようなもの! ー2
2010年01月06日(水)
 * 検索で「句読点の打ち方」と入れたら、次のようなものが出てきた。
・文の息の切れ目に読点を打つ  ・対等に語句を並べる場合に打つ ・難読、誤読を避けるため使う
・文の構造を分かりやすくするために打つ  ・節と節の間に打つ(彼も喜び、私も喜んだ)
・前置きの節や語句を区切る(その夜、あなたはいなかった)
・挿入された節や語句を区切る(私はそんなことは、前にも言ったように、していない)
・主語を明確にするために打つ(私は、彼はそんなことはしていないと思う)
・修飾する語とされる語の関係を明確にするために打つ 
・読点と他の符号との連続はなるべく避ける
・会話の場合は「 」の外側に句点を打たない 
・会話以外の場合で、「 」や( )などで文が終わるときは句点を打つ
・「 」や( )などのなかに入る最後の文については句点を打たない
・「――」や「……」で終わる文には句点を打つ  ・箇条書きには句点を打たない
 ー以上だが、本を読み込み、自分の文章を書き続れば自然と身につくものだが、上記はほぼ実行している。
 (会話の場合は、どうだったか?)上記の句読点の打ち方を見る限り「妖精のようなもの」には、疑問だが。
 チャンとしたルールがあり、別に神秘的ではないし、神のシモベには思えない。文の息使いは、それぞれ
 あるから、上記のことを守っていれば、あまり意識をすることはない。 文章の(、)と(。)は、書く
 ほうも読むほうも、相互の呼吸あわせになる。だから校正で一番、気を使うことになる。
 と同時に、書きなれてない人は、この方が最も難しくなる。
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2833, 年始のTV 討論で印象的だった世界経済の論評
 2009年01月06日(火)
 年末年始のワイドショーで経済学者等の金融危機に対する論評を可能な限り聞いた。
 一年以上かけて十数冊の関連の本や新聞の解説や論評を読んでいたこともあり、
 目新しい内容は少なかったが、それでも、「おや!」と思う部分を紹介してみる。
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・岡崎元大使がアメリカで驚いたという次の内容が面白い。
 「アメリカで感じたのが、日本で感じるほどアメリカ全体として暗くない。一部の勝ち組と称す連中が
 サブプライム入り債権を買って大損をしていてのを、大多数が傍目でみて喜んでいる雰囲気がある」という。
 日本のバブルがハジケて北海道拓銀が倒産したときに、札幌に講演に行った将棋の米長邦雄がタクシーの
 運転手から意外な話を聞いたという。「北海道の道民は、本当は心の底で喜んでいるんですよ。あいつ等、
 特権意識を持って威張り散らしていたのが、あの様でしょう。確かに辛いけど、あいつ等の姿を見るのが嬉しい
 のが道民の実際の感情です」。 この直後に彼の講演で聞いたので、社会とは、こういうものかと驚いた。
 それと同じことがアメリカの多数の感情とみれば理解できる。 ビッグスリーの首脳がジェット機で議会に
 乗りつけ政府に資金援助を要請するなどは、国民感情を逆撫でることを彼等は気づいていなかったのである。
 アメリカではサブプライムローンを払えなくとも物件を手放せば、それ以上の追求を逃れることが出来る。
 借りている被害者は、日本の立場とは全く違う。 元々ほとんど資産がない連中である。本当の被害者は、
 その毒入り債権を買ってしまった中産階級以上の国民と銀行である。それが恵まれた連中と金融機関と
 くれば、マイナーの大多数?の心中は拍手喝采が人間の心情である。 これはマスコミには載らない
 ニュースである。少しは日本にも、その感情があるのだろう。 
 数ヶ月前までは、日本はバングラデシュ並みのマイナーの国として金融立国とかで謳歌していた連中に
 蔑視されていた。しかし、これで全てが日本以下になる。但し5年後は、その下に陥るのは間違いないが。
アメリカ国家の借金は国民一人当たり1600万、総額4600兆円という。ちなみに日本は莫大と
 言われても一人640万円で、800兆円。これでは国家経済は破綻状態である。アメリカ国民3億人
 のうち、飢餓?状態の200万円以下の人たちが12%にあたる3700万人もいる。1929年の世界
 恐慌が収まった原因はニューデール政策といわれいるが、実は第二次世界大戦で、一度世界のマイナスが
 清算されたためという。1929年の時のアメリカの失業者は労働人口の25%であった。
 それより、今回の恐慌は遥かに大きいというから、最低でも十数年は大混乱が続くとみてよい。
・日本はバブル崩壊後に「輸出立国」のモデルをつくりあげ、何とか経済を維持してきた。
 それが根こそぎ破壊されたのだから、日本はアメリカと同じように破綻の道を歩む運命?
  ーーー
 毎日毎日、恐慌のニュースである。 マスコミは自制しても、ネットで事実が一瞬に流れる。そうすると、
 その差を国民の方が見てしまう。そこまでネット社会がいっているのを、役人も政治家、もっと言えば、
 マスコミボケをしているマスコミの連中がネットの凄みに 気づいていないと思いざるを得ない。
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2008年01月06日(日)
2468, サブプライムとは何か -2   (゚Д゚*)ノ⌒【おはよう】
サブプライム問題とは何か』春山昇華著    宝島社
サプライム問題はアメリカの覇権主義の正体そのもの!である。その実態は、日本がこの十数年の間に
犠牲になったムーディーなどの「格付け機関」という怪しげな格付けというマジックを使った債権詐欺?
だった。まだ、あの格付け機関を日本の一部マスコミでも信じているようだが。このマジックで、
日本の企業はアメリカに買いたたかれたのである。日本企業を買い叩くために「格付け機関」を作ったとも
いわれている。去年の末からサブプライム問題が問題になり、週刊誌や月刊誌に大きく取上げられた際に
随想日記にも取上げた。先日、知人からこの本を借りて読んだところ、より深く問題を掘り下げていた。
TVで解説しているほど、実態は甘くないようだ。ここで、そもそもサブプライムとはどんなローンなのか、
その融資を受ける「信用力の低い個人」とはどんな人たちか、彼らにローンを組ませるためにどんな
金融業者が暗躍したかが生々しく書かれている。その露払いが、さきほどの「格付け機関」である。
屑のような債権を、格付けAやトリプルAを付けて世界中にばら撒いた。プエルトリコや、黒人などの
所得が低かったり、過去に住宅ローンの返済が滞ったことがあるという理由で、一般の住宅ローン
(プライムローン)を借りることができない人向けの融資を金融機関は積極的に債権化をしたのである。
一般のローンより金利が高いが、初2年間だけは返済額が小さく抑えるなどの特徴があり、低所得者
広がっていった。この背景は住宅価格つまり担保価値が上昇し続けることが前提になっている。しかし
信用不安などで値下がりが始ると雪崩をうって崩壊を始ったのである。この中では、住宅価格上昇の
絶頂期だった2005年ごろに登場した忍者をもじった「ニンジャローン」を取上げている。ここまで来る
と芸術的犯罪に近くなる。NINJAとはノー・インカム、ノー・ジョブ・アンド・アセットの略で、所得
がなく仕事も資産もなくても借りられるというものだ。このローンの背景には住宅価格が上昇すれば、
担保余力が生まれるため、自動車ローンや消費ローンなども組みやすくなる。ローンを借りたい人たち
にとって、これほど良いチャンスはない!まず家を持ち、自動車や家電製品を買いまくっていた。
債権の買い手さえが、自分がどこまで被害にあっているか解からないところが、問題の深刻さを現している。 
この実態を知れば知るほど深刻である。もともと、アメリカが国家単位でしていることを、民間レベルに
切り替わっただけと言えるところが皮肉である。これをキッカケにアメリカ国債やドルに対しても
不信感が重なる。その意味で、今年はこの問題は大きな波乱要素になることは必定である。       
!               
・・・・・・
2007年01月06日(土)
2104, 勘違い!
  オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
先日のモーニングショーで、TVで勝ち組?の六本木ヒルのマンションに入居の社長と、月十万円を稼ぐのに
必死の三万円のアパートに入っている漫画本講談師との、二人の年末の日常を、同じ時間軸を対比しながら
映し出していた。共通点は、20歳代後半と、フリーター出身である。私の目からみれば月十万円の漫画
講談師のほうが遥かに良い一日を過ごしている。それが画面にはっきりと映し出されている。地に足を
しっかりつけて一日を過ごしているのはどちらか歴然としている。しかしディレクターの素材の問題だろうか、
それとも実際は、私の指摘した隠れ真実を?ディレクターは言いたかったのだろうか。モダン主義と、ポスト
モダン主義の問題そのものである。誰もが認めるような大きな成功物語を良しとするか、それとも、自分
がしたいことを傍の目をものともせず生きる物語を良しとするか。コミックなのは、成金の方が一時代前の
価値観で生きていることだ。だから漫画講談師と対比させたのだろうか?いや違うだろう。
何が六本木ヒルか笑ってしまう。あれが何だっていうのだろう。気の毒な連中の収容所でしかないと思う
のも私だけだろうか。満足感の問題だから敢えていうこともないが、ただ単純に、こちらは良い、あちらは
悪い、と決め付けることに問題がある。たまに泊まる分にはよいが何じゃありゃ!でしかない。これは
私の立場。 村上某とか、ライブドアの某とかいうパンダが、証明したではないか。自宅から歩いて数分の
所の土手の彼方此方に鴨がいて、セキレイが飛び交っている。どっちが素晴らしいというのだろうか。
そんなこと決まっているじゃないか、というのは年齢のためか。下の息子も一昨日鉄骨ジャングルに帰って
いった。嬉しそうなところが、痛々しいが・・ 彼の方は、小さな世界に安住している地方の両親!
位にしか、見えないから、それは年齢と適正の違いもあるが話が逸れたが、漫画本講談師の男、毎日が
スリルとサスペンスだろうが、決して楽しそうでないのが気になったが・・・
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2006年01月06日(金)
1739, 人生の自己採点
   ま! (。・・)_且~~ お茶どうぞ
 私の何気なくする質問が時々キツイことをいう。
その中でも特に顔色を変える質問がある「これまで生きてきて、自分の点数をつけるとしたら何点?」  
思わない質問に、自己評価をどうしてよいのか一瞬たじろぐ。 おそらく、その後かなり悩むのではない
だろうか。それも次の言葉を加えるから厳しい。「一応、あなたが考える第三者の評価も含めて勘でよい
から感覚的な数字をあげてみて」と、一瞬の間を置く。大体、70点以上の人は直ぐに答えるが、それ以下
の数字を頭に描いた人は黙る。    (字数制限のためカット 2011年1月6日)
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2005年01月06日(木)
 1374, キュープラ・ロスー2
ロスに関して、もう少し詳しく書いてみる。
ターミナルケア(終末期医療)のテーマにおいて最も愛され、尊敬される第一人者の存在である。若き日の
勤務していたニューヨークの病院での瀕死の患者の扱いに彼女は愕然とした。〈彼らは避けられ、粗末に
され、だれも彼らに正直に接していなかった〉彼女は他の同僚達とは違い、いつも末期の患者と供にいて、
彼らの心の声を聴いていた。そして彼女は「自らの経験を語る瀕死の患者についての講義」を始めた。
1969年の最初の本「死ぬ瞬間」はキュブラー・ロス博士を世界的に有名にした。〈私の当時の目標は、
患者が心の奥深くの悩みを訴えることを禁じる専門家の拒否の姿勢をうち破ることだった〉と書かれている。
このテーマについて何年間も満席の聴衆に向かって話をし、20冊以上の本を書き、25カ国語以上に翻訳され、
また彼女は20を越える名誉博士号を受けている。1995年に彼女はひどい発作におそわれた。麻痺が残り
彼女自身死と向き合うこととなった。容態が安定したとはいえ、彼女は発作から完全には回復していない。
〈私はゲートを出たのに離陸できなかった飛行機のようなものです。ゲートに戻るか、そうでなければ逃げ
去ってしまいたい〉と正直に自分を語っている。「世界中の人に愛を与えた聖女」の実像は家族をおきざり
にして、世界中の人々に愛を与えて歩きあげくの果てに、霊媒師に引っかかり、結局は一番最愛の人(夫)を
失ったともいえる。その晩年は孤独で淋しい老女だったことは間違いない事実。世界中の死に直面をした人を
救った彼女は、自分の愛する人を救えなかった。皮肉といえば皮肉である。しかし、その矛盾した姿こそ、
彼女の偉大の姿でもある。「死の瞬間」の出版から、世界中の注目を集めた独りの女性は、その晩年の姿は
決して幸福ではなかった。先日のテレビの映像はその姿を生々しく映し出していた。世界的地位や名声と
引き換えに、一番大事な「家族との時間」を失った彼女の姿は聖女といえば聖女であろう。彼女の晩年に
書いた「ライフ・レッスン」という著書も、なかなかの内容だ。全てが人生におけるレッスンと思って
生きていけば、全てを受容することが可能になるからだ。若いときに鬱々としていた時、ふと「全てが人生
の修行と思えばよいのではないか」と思った経験がある。そして、その視点で全てを思い見直したとき、
霧が目の前から消えていく思いをした経験がある。人生全般からみたとき、死に直面した時こそ最大な
レッスンになるのだろう。両親に後ろ姿を、その時に身近でジックリ見せてもらった。しかし、自分が直面
しないと解らないだろうが、ロスは直面した時何を学んだか? 一言二言では言い表せないのは当然である。
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2004年01月06日(火)
 1007, 激突!エコノミスト-今年の景気予測
(以下、字数制限のためカット 2010年1月6日)
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2003年01月06日(月)
633、「不幸論」ー中島義道
 図書館で借りてきたユング派の哲学者の中島義道の不幸論が面白い。
幸福論の自己欺瞞を鋭く指摘したあとに、人間の最終結末の死をとらえて不幸論を書いている。
しかしあくまでも幸福論の批判であって、不幸論そのものを見すえて論じてはなかった。
 不幸を座視にして幸福論を批判するのは、逆に幸福論をより鮮明に浮かび上がらせて理解するのに良い。
幸福の構造は
1、自分の特定の欲望がかなえられていること  2、その欲望が自分の一般的信念にかなっていること
3、その欲望が世間から承認されていること 4、その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れてないこと 
 特に1~3までの実現に4が生じてしまう。
 幸福論というと、エピクロスの快楽主義が思い浮ぶ。
「人生において、面白おかしくしたい事をする事が全てに優先されるべき」
バランスが問題になるだろうが。最近の幸福論としてヒルティやアランである。
ヒルティの幸福論はキリスト教の理想的なカタチ
・アランは内省ー解釈の仕方ー気持ちの持ちよう集約するとこんなものだろう。
私の幸福論はやりたい事を見つけどれだけやったかという達成主義である。それもあくまで自己欺瞞でしか
ないのだろう。愛・知・力という3点に自分の目標値は決め、達成のプロセスが=幸福という単純なものだ。
しかし死を宣告された時にその達成感など何の支えになるかと考えると、その前に粟粒でしかない。
この不幸論の一番気にいったところを抜粋した。ーだいたい、幸福論を書こうという人の動機が気に入らない。
 彼(女)は、
・まずだれでも幸福になるという基本態度を押し出す。
・次に、この磁石の上に、自分の体験を重ね合わせて、幸福とは大それたものでないことを、それは考え方を
変えることで誰の足元にもころがっているという壮大な建造物ー砂上の楼閣を創りあげる。これは幸福教の
布教にすぎないまやかしである。幸福そのものが虚妄なのではない。幸福そのものが、じつはあまりにも
高いところに位置する。幸福が安直に手に入ると思う事が、虚妄なのである。各人の幸福は自分の五感で探す
しかない。そしてヤコブが砂漠で神と格闘したように、全身全霊でみずからの人生と格闘した後に、とうてい
到達できない事を知って、絶望するほかない。こういうことを悟った者は幸福でない。
しかし、幸福という幻覚に陥っている者より数段マシである。
ーー
以上がだいたい彼がこの本で貫いている主張の要旨だ。私の今の気持ちー敢えて気持ちと書くーは以下である。
両親や身近な人の死に様や生涯をみて、一生かかって何かをやり終えた人生そのものの判断を幸・不幸という
言葉で論じるべきでない。それは酔ってる気分の状態を論じているにすぎない。「酔って気持ちが良いか、
悪いかの」まあ幸不幸は考えないのが一番幸福だ??
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2002年01月06日(日)
 292,システム・エンジェニアーSE
  (字数制限のためカット 2011年1月6日)
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ある時間の断片
 1月6日 1969年
10時起床。 食後、11時から16時までジャスコに出す論文の下書きを完成。
それにしても集中が足りない。構想力や文章力のなさに自分でも情けない。絶対量の本を読んでなかった
ツケがこういうカタチになって出ている。独りになる時間が少なかったのだろう。その為に、独りになる
と逆に縮んでしまうのだ。焦りと、動揺がここにきて出てきた。リラックスをして自分をもっとしっかり
見つめないとダメだ。このように家に休暇で長く居れるのも、これが最後。
こうしてみると、やはり学生時代は人生で一番良い時だったのだ。