* 居酒屋の料理に…
 地元長岡駅前の、白木屋グループ『目利きの銀次』という新店に入ってみた。
二人で6600円だったが… 値段の割に美味しい。アルコールを一品注文すれば、
今日のサービス3品<サーモン・ステーキ、ビーフステーキ、刺身盛り>が半額
と勧められるまま、生ビールと枝豆と共に注文した。相方と摘まむのに最適。
それが、何とも美味い。晩酌のスーパーの酒のツマミとの段差は大きい。
 一週間前に、地元のステーキチェーンの『ステーキランチ』を食べたが、
肉は硬くて味が悪くて、家内と、『何、これ!』と不満が残った。ほぼ同じ値段
のステーキが、居酒屋の方が、遥かに美味しいとは、これ如何に?
それも、当日のサービスで半額ともなれば… 4人かけの机に壁掛・薄型TVから
ニュースが流れていたが、今さらだが、有るようで無かったサービス。
 一週間前に、中学の同期会で、ニューオータニのコースを食べたばかりだが、
私には居酒屋の方があっているのだろう。
 売れ筋3品を、半額で提示も競争激化対策としても思い切った戦術。
隣の『日本海庄屋』は、ボーナス日和の花金でテーブル席は予約で満席。
それに対して、入店時18時に、ここは皆無。30分もしない内に満席になったが… 
この上階の同系列のカラオケも、バーチャルカラオケに業態変更をしていた。
その直前に、その店から若い女性が、次々と退出してくるのをみながら、
「18時までサービスでもあるのだろうか?」と不思議に思いながら眺めていたが… 
レア世界の厳しさを垣間見ることが出来た! 
現実世界から、日々、遠くなりにけれということ。
――
  * ふといま、思いついた新作小話
 子供: 神様と、悪魔が喧嘩しているよ 
警官: で、どっちが神様なんだ?
 子供: その件で、殴りあいになったんだ。
【子供:お父さんが喧嘩しているよ 
 警官:で、どっちがお父さん?
 子供:その件で、喧嘩になったんだ!】の小話の応用編。

<バカと利口>も面白い? 

・・・・・・
5972,閑話小題 〜ヨガの話 −4
2017年07月22日(土)
          〜写真は「カンチェンジュガ山麓ゴルゲ村」
   * 中村天風の心に残る名言              
≪・「人間はこの世に何しにきたのか?」のカリアッパの質問に、
  三ヶ月、考えた末に、「人間は、この世の中に、宇宙本来の面目である進化
 と向上に順応すべく、出てきたと思います」… 知らないうちに、自分の心の
 奥の潜在意識の中に消極的な観念要素が多く溜まったことが、1つの大きな原因
 になっている。物質文化の時代に、物質本位に生きているから心の働きが鈍くなる。
・絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。
 悲観的な言葉なんか、断然もう自分の言葉の中にはないんだ
 と考えるぐらいな厳格さを、持っていなければだめなんですよ。
・鉛は鉛、金は金。鉛に金メッキして、俺は金だというような顔をしなさんな。
・意志の力の強いっていうのと、強情っぱりと同じにしてちゃあだめだ。
 強情っぱりっていうのと、意志の力はぜんぜん違うんだよ。
 乱暴と勇気が違うのと同じようにね。
・船に乗っても、もう波が出やしないか、嵐になりゃしないか、それとも、
 この船が沈没しやしないかと、船のことばかり考えていたら、船旅の愉快さ
 は何もなかろうじゃないか。人生もまたしかりだよ。
・良い運命の主人公になりたかったら、心の中に感謝と歓喜の感情を持つことだ。
 感謝と歓喜に満ちた言葉と好意は、人生の花園に善き幸福という実を結ぶ。
・感謝するに値するものがないのではない。
 感謝するに値するものを、気がつかないでいるのだ。
・一度だけの人生。だから今この時だけを考えろ。過去は及ばず、未来は知れず。
 死んでからのことは宗教にまかせろ。
・憎い人があろうはずがない。あなた方が何か憎らしいことを考えているだけだ。
・数ある同僚の中からぬきんでて偉くなる人は、結局、偉くなるべき資格を
 持っているんです。その資格とは、
「誰にも言われなくても、日々毎日、実際に努力している」ことなんです。
・「習慣は第二の人生ともいうが、習慣が身についていくと、もう簡単 明瞭。
 その習慣を身に付ける一番良い方法がある。折あるごとに、時あるごとに、
 日に何千回でもいいから「深呼吸」をすることを稽古しなさい。そうすると、
 ひとりでにこの良き習慣が、いざという時に特別の意識しなくとも、肛門が
 締まって、肩が落ちて、おなかに力が入る。 (〜P181)

▼ 日本が右上がりの時代に、「人間は、この世の中に、宇宙本来の面目である
 進化と向上に順応すべく、出てきた」は、最適な信念に成りえた。サルトル
哲学に大きく影響を受けている。その後、構造主義、脱構造主義の哲学が、西欧
絶対主義を批判、今ではサルトルも過去のものとなっている。しかし、その根が、
ネパールのヨガであるところが面白い。構造主義が南米、ヨガがネパールの奥地。
心、魂の問題を生きる中心におくのも、自然といえば自然か。深呼吸だけでなく、
私的時間のスケジュールなどに、習慣の力を利用することを思い立った。
 その一つが、40歳半ばから65歳辺りまでの年に二回の<秘異郷ツアー>。
私にとってのライフワークになっていた。行蔵としての充実感として残っている。
 中村天風と、HP内検索を入れると、以下の文章が出てきた。

――――
2016/05/11
魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思

   * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思
 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、
<魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 
そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、
魂の進化こそ人間の目的という。
  〜天風の哲学から〜
≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。
【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと
言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に
その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり
減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、
『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。
本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て
直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。
【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】
 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。
教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫
▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、
 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、
この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。
この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、
最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります
ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・
〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。
ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、
結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。

――――
2012/05/07
要は、受け止め方である!
 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも
解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生
と脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 
中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 
人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。
これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。
受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、
これからの人生の方向を変える。そのために記憶さえ変えるのが人間の業。 
それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の絶対量が必要
になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろうというもの。
「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、運そのものが
意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 
「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果
としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 
知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。
初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の
失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 
おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちるよう
に衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。 

――――     
2007/02/11
2140, 幸福はキラキラと輝く瞬間         
     「藤沢周平に学ぶ」月刊『望星』・編  −読書日記ー                  
  ー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』ー
山田洋次監督の映画は「男はつらいよ」の48本すべてと、
その他の映画の最近のものは殆ど観ている。彼が「男はつらいよ
についてのTV特集などで渥美清を語る座談で、多く聞いてきた。
しかし、どういうわけか彼が書いた文章は殆んど読んだことはなかった。

ところが藤沢周平についての評論を24人集めた「藤沢周平に学ぶ」の冒頭の
「藤沢作品を映画化して想うー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』」
の評論があった。彼は幾つか藤沢の映画を撮っているだけあって、心打つ
内容である。人生で誰もがキラキラ輝いていたのである。 そのとき! 
    〜まずは、彼の文章の一節から・・
  
   *幸福とはキラキラと輝く瞬間を持つこと!
「隠し剣、鬼の爪」で、主人公の侍が行儀見習いで女中奉公に来ていた
娘にプロポーズするシーンで、その瞬間、彼女はキラキラと輝くような、
生きていてよかったという幸福感で胸が一杯だったはずです。
僕は、幸福とはキラキラ輝く瞬間を持つことだと思う。人生のうちには、
そんなふうに何度かそういう瞬間がある。あるいはあってほしい。

心の芯から温かいものがフワ~と湧き出るような、そういう短い時間が
誰もが持っている。映画「たそがれ清兵衛」でいえば、父親が幼い子どもを
「高い高い」しながら抱き上げる瞬間、子どもの側からすれば、高々と
持ち上げられて、急に視界が高くなったときの嬉しさ、ああ、いま父親に
高く抱き上げられているのだ、という充足感。子どもはその後、大人に
なるにつれて、人と争ったり、世渡りで苦労したりするが、あの瞬間の
充足感は一生忘れない。幸福ということは、つまりそういうことなのでは
ないかと思います。
(感想)
ー私自身、キラキラと輝く時間は数数え切れないほど多かった。
本当にこれで良いのか?と思うほど多かったといえるのが幸せである。
求めたからだろう。ギラギラでなく、キラキラというのが幸せである。
ギラギラは、心に欲とか不純なものが蓄積している状態で、後には不快が残る?
やはり、幸せは両親の愛情をタップリ注がれた基盤が必要条件になる。
二人の愛の結晶が子供である。 愛は二人で維持していかないと・・・

  *感動体験が「良識」をもたらす
 いまの30歳代くらいまでの若い人の特徴は、子ども時代の体験が
あまりに貧しいということではないでしょうか。 団塊の世代までは、
野原や川原で大勢の友達と遊ぶ楽しさを知っています。
汗だらけになって遊び呆けて、日暮れどき、仲間とアバヨと別れ、家路に
つきながら「ああ、楽しかった」という、身体の中が熱くなるほどの満足感。
そこには兄貴分がいて、喧嘩もあって、仲直りもあって、子どもとはいえ、
小さな世界の秩序があった。そうした中で、人は自然を学び、社会の分別を
学んでいたのです。
 生きていくということはなかなかしんどいことですが、やっちゃいけない
ことはやらないという態度は良識だし、やらなくてはならないことはやると
いうのも良識です。その良識を持っているいるかいないかはということは、
その人が、ああ俺は幸福だな、という感覚を肌身にしみて体験しているか
どうかと、深い関係があると思います。

人間というものは厄介な存在で、恋愛問題だけでなく、家庭、地域、職場、
学校など、集団にはトラブルはつきものです。いったんこじれた人間関係は
修復するのは、面倒なことだけれど、相手の立場に立ったり、相手を変えよと
努力したりする中で、自分自身も変わっていくのです。
もつれた糸をほぐすような悩みや工夫のなかで、人は成熟していくのです。
 (感想)
ーこの視点で、人生を振り返ってみると、何が重要だったのか見えてくる。
本当に目を光らせて自然の中で遊びほうけたものだ。
私らの年代は、本当に遊びまわっていた。
それが中学二年あたりから受験勉強を強いられる。
それも、必要である。
感動体験こそ人生を豊かにさせるものである。
感動体験だけは人一倍してきたが・・・まだまだぜったり量が足りない。
 60歳代の人生のテーマは『もっともっと感動を!』か?
  

つれづれに

イメージ 1

  他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/549/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 

  今日のYoutube

 大相撲はアッサリと「御嶽海」が優勝をした。
この力士は関脇なら良いが大関横綱になると勝てなくなる
典型的な相撲取り。 相撲としては、当分、新たな力関係が
出来るまで混沌とすることになる。





・・・・・・
・・・・・・

3405, この国の終わり ー2
2010年07月22日(木)

   * 考える遺伝子の不在 
 日本の現状に対して、殆んど誰も考えてない国家に絶望をしながらも、何とかしたいという著者の気持ち
が伝わってくる。これでも考えて生きてきたつもりだったが、この数年来、何を考えて生きてきたのか反省
しきりである。10年来の哲学等の学習効果が少し考えに厚みが出てきたが、そうすると人生全体に疑問を
持つようになる。こと日本人全体をみれば、ほぼ99パーセントは考えてないように見かけられる。
「考えて何になるの?」という質問が帰ってくるのが落ちになる。 欧米、特に欧州では中学校の段階で
哲学の授業があるという。考えるとは、陸続きの他民族の侵略の恐怖や不安がああるからだ。 
それを真剣に考える時に、それが立ち現われる。海に囲まれて当面の攻撃が考えられない日本民族にとって、
考える必要がそれほどないから、考えられないのである。
   ー以下の、箇所は辛辣だが、的を得た内容である。ー  -P34 
要するに「脳が足りん」のだ。 考えるー、という脳の機能が少なくとも他の民族と比べ極端に欠乏している。
猫でももう少しましに考えて行動しているのではあるまいか。 それは一方において、日本人があまりにも
鋭敏で潤沢な「感じる」という機能を持っているために、考える機能のほうが圧倒され、脳の土俵から押し
出されてしまったせいなのかもしれない。つまり右脳と左脳、ロゴスとパトスの千秋楽の結果である。
この事実への感慨は、母国の中の異郷、身寄りが一人もいない九州の山中に住み着いたこの六ヶ月、
日々ショックを新たにし、今日も変わらず、修正できず、ますます強まる一方である。 
 国家は芯の芯まで腐り果て、民族は脳死状態で、植物人間化している、ということを、ほとんど誰も
考えていないのである。いや、考えることができないでいるのだ。うすうすは感じてはいるらしい。
そもそも思考力よりも直観力の鋭かった民族である。なにやら日本の全体がおかしく、どこかが狂っていて、
怖ろしい結果が近づいている、といった漠然とした恐怖は、なんとなく感じてはいるらしい。何しろかつて
この国には起きようもなかった異常な犯罪は、それこそ日常茶飯といった感じで起こり続けている。
帰国してからのこの半年間でも、すでに数え切れない。 あまりの立て続けさに、私も忘れるし、人々も
覚えきれず、次々に忘れていくようだ。確かに世界中で犯罪は起きている。ニューヨークだって、パリだって、
私が十八年暮らしたオーストラリアだって、犯罪は起きる。しかし、これほどの異常な内容の犯罪は聞いた
こともない。どこであろうと、起きているのは「並みの犯罪」だ。並みの犯罪とは、犯人は、それがどんな
種類の犯罪であろうと、何かは考えている。どんなにバカな考えでも、異常な考えでも、愚かな考えでも、
邪悪な考えでも、要するに、ナニカは考えている。
≪ 恐慌以来の日本国家の存亡の危機に対し、国民の危機感の希少さに驚き唖然としている。
  それが考える遺伝子の不在としたら ≫
 ・・・・・・・・
3030、卒業40年周年か~ -2
 2009年07月22日(水) 
* 卒業40周年記念に参加してみた人間模様。
 1~2年次の教養課程の同級生では、TVでよく見かける服部学園服部幸應と、
 大阪学院大学の白井総長が面白い存在。
服部幸應は実名が染谷で、当時は存在感が殆どなかったが、常に財布に10万円を入れている
 という話はあった。一年留年をしてアメリカに行っていたのか、留年をしたためアメリカに行って
 いたのかはファジーである。二次会のクラス会が彼のために開かれているかどうかは定かではない。 
・私が学生時代で一番親しくして、卒業まじかで大喧嘩をした石○譲○。ハッタリ屋だったが20年前
 のバブルの崩壊で倒産。借入金が280億で、ビルが17棟だったという。 前回は身を隠している
 状態で不参加だった。三次会の最後は彼と飲んだが、二棟だけビルを隠して持っていて現在は、それが
 生活のベースになっているとか。更に、この恐慌で、経験を買われてコンサルタントもしているという。 
 バブル時の倒産劇は、人生の大きく覆いかぶさっているというがそうだろう。
・クラブ関係では、神田周辺の菓子問屋に養子に行った男が土産として、仰々しい包みのお菓子をくれたが、
 家内が言うに、「これって、前週に買おうと東京駅の地下の店のカリントウ。すごく有名だけど、わざ
 わざ並んで買ってくれたのかしら」と言っていた。「まさか、そこの社長じゃないと思うけど、少しは
 有りえるかも」と答えていた。お返しで、新潟の酒を送ったところ、自宅に電話があり家内が出て
 「そこの社長なんですか」と聞いたら、そうだという。「先週、買おうと店まで行ったら 行列で買え
 なかった。奇遇です・・・」家内は、本当か嘘か?その辺は調子が良いが、相手も悪い気がしないだろう。
・卒業してから数年後に、先ほどの石○譲○と、私の自宅に遊びに来た伊香保温泉の「村松屋」
 に婿養子に入った友人の根岸君。十数年前に脳溢血になって、九死に一生を得たとかで、半身不随に
 なっていた。それでも朝一の高速バスで來京し、最終のバスで帰ると言う。以前に一族の「いとこの会」
 を、その旅館で開いたことがあった。
・亡くなっている人はクラスの約一割である。 還暦を越えると、社会的に如何こうは、
 三番目か四番目になる。   10年後には出席できるかどうか。
・・・・・・・・・
2665, 人生は儚いのか?
 2008年07月22日(火)
知人の墓に、亡くなってから隔月にお参りをしている。たまたま散歩をする土手の折り返しの近くに
墓がある因縁のためだが。習慣とは面白いものである。両親の墓には年に三度ほどしか参らないのに。
その都度思うことだが、「人生は儚い」ということだ。必ず、心の中で話しをするが、故人が語りかけて
くる言葉は「生きているうち、こっち(あの世)は、ただ空」そしてダメ押しに「もっと墓参りに来てくれ!」
勝手に沸いてくる言葉でしかないが、それでも何かがあるのだろう。故人と話しをしながら、思うことが、
娑婆のことなど全て儚い夢でしかないということ。そこで「儚いとは、如何いうことか?」を考えてみよう。
それは生まれる前の無限の時間と、死んだ後にも続く無限の時間を、死ぬと覚悟をした時に「あまりに
小さな時間」を思い浮かんだ実感である。だから、「幸福の4Fは克服できない苦難と悲しみ」というのも、
言い得ている。故人から学ぶことは、そのことである。達成した幸福の喜びなど、酒を飲んで盛り上がれば、
出来ること。そこには、生きているうちに感じる儚さしかない。しかし、それを言えるのは達成をした
経験のある人間しかない。それも、これも、如何でもいいことだが!儚さと感じるのは、4Fの克服できない
苦難と悲しみの意味を知らないからだ。儚いというのは「わたしの儚さ」である。「わたし」という有限
の自分の、小ささをシミジミ知ることである。その小ささの一番の意味は時間の小ささである。
それも、他人と比べるのではなく、生前、生後にある何処までも広がる時間に対してである。自分を取り
巻く永遠の広がりの時間である。そう感じる「わたし」は、実は過ぎ去った時間を振り返った時に「これ」
から「わたし」になった言葉。そうすると、「わたしの人生は儚い」は、その言葉に縛られた感情でしか
ないということになる。人生を振りかえって長かったような、一瞬だったような気がするが、それは現在、
そう思っている「わたし」の言葉ということだ。一年前の日記に「わたしの人生は儚い」と書いてあった
のを読み返したとして、あの日に、そう思っていた「わたし」がいた、というだけのこと。知人の墓参りに
感じる「儚い」は、故人からの教訓で、実は直面するだろう自分の死に対する、予行演習を勝手にしている
ということでしかない。儚いと思ったら、現在直面している苦難と悲しみをジックリ味わえ!ということ。
故人の墓参りをして「儚い」などとは、自分の心が、都合のよいことしか考えていない、解りやすい事例
でしかない。 まあ、そういうこと! みも蓋もない話になったが。

・・・・・・・・・
2007年07月22日(日)
 2301, また地震!どうなっている?まったく! ー5
 まず今回は原発に絞って、これまでの問題をまとめてみる。
・世界最大規模の刈羽原発の真下に、実は活断層が直下に走っていて震度6強、
 マグネチュード6・8の地震が発生した。それは、日本の国家として最も恐れていた非常事態である。
・海岸線のため、それは普通の地震とは違い、一般住宅が1000世帯、半壊はその倍の2000?
 被害家屋が10000世帯にのぼった。それは直下型地震の上、地盤が弱いことが原因である。
 それからみて、原発の施設は想像を遥かに超える損傷を負ったと考えるのは妥当である。
原発は最大マグネチュード6・5を想定して設計されており、6・8とすると2,5倍の衝撃が
 かかっている。もし、中越地震並みに震度7だったら、マグネチュード7,2だったら、と想定
 すると、日本はチェルノブイユのような事故になっていた、と考えられる。 日本壊滅?は、決して
 小説・映画の世界ではない!ということになる。
・マスコミで「この事件の結果、過去に原発反対運動の住民が言っていたことが、ほぼ正しかったことが
 改めて検証できた」と報じた。ということは、利権で推進した連中は、国家をあわや滅ぼそうとした輩
 として断罪に値する、ということになる。想定外でしたとは、言いのがれはできない! そのトップ
 だったのは誰かは周知の事実である。その利権に屯したマフィアは誰か!
・3日前に私の知人が海水浴に行ったら、殆ど泳いでいる人が居なかったという。
・最も不運だったのが、外部の火災である。それがトップニュースとして世界中のマスコミに
 流れてしまった。このイメージダウンは最悪といってよい。彼らは、ことの真実を見抜く力がある。
 報道規制は彼らには効かないのである。それだけではない、インターネットで原発で働いている人から
 内部の生々しい状況が瞬時流されてしまった。さらに、消火が二時間も放置されていた事実も映像で
 あるからリアルである。消火が遅れたのは被爆と火力を恐れて誰も近づけなかったというが・・
・おまけに、さらに震度6弱の余震がある可能性があるのに、それが原発施設に及ぼす影響、危険に
 対して住民避難を検討した形跡が、どうもない。そういう私も、もう起きないだろうと実はタカを
 くくっている。これは自己責任のレベルの問題であるが。
新潟市に近い‘巻’という村で原発計画があった。 一度決まりかけた計画が、住民運動のため
 中止になった。かなり激しい住民同士の対立があった。しかし、この結果からみると反対住民が
 正しかったことになる。柏崎と長岡の関係と、巻と新潟は同じような立場にある。 柏崎は経済波及
 を選択したのだ。決して政治家や建設マフィアだけが悪いのではない。これで、全国の原発周辺の
 住民は大きな不安を倍加したことになる。 特に、福井周辺には幾つかの原発がある。新潟北から
 神戸にかけての地震危険地帯の上にある。これら全ての廃棄を、真剣に検討すべきである!
 
 もちろん、柏崎・刈羽原発の再開は、検討する以前の話である。『廃棄!』である。 
 再開など世界が許すわけがない。

 ・・・・・・・・・
 2006年07月22日(土)
1936, ローマから日本が見えるー14   (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス!
 第6章 勝者ゆえの混迷ー3
  ー同盟者戦役ー
マリウスの改革は、特に志願兵の導入は『誰の既得権をも損なわない』という意味で利点があったが、
思わない副作用をローマにもたらすことになった。志願兵の導入は元老院の力を最終的に削ぐ作用を
働かせていく。ローマ連合に属している同盟国や地方自治体の市民にとって、兵役はいまだに義務の
ままだった。彼ら非ローマ市民たちは、直接税を納めた上に『血の税』としての兵役に就く義務が課せら
れていた。これに対してローマ市民は兵役が免除され、しかも直接税はもともと存在しない。
これではあまりの不平等である。こうして起こったのが「同盟者戦役」である。イタリア半島の比較的
貧しい8つの部族が一斉蜂起したこの戦争は、さすがに苦戦を強いられてしまった。結局この戦いは、
戦闘に勝ったローマが大幅な譲歩をしたことで完全に収拾する。戦役の二年目にあたるBC90年の冬、
ローマは「ユリウス市民権法」を制定、同盟国に暮らす市民がローマ市民権を自由に取得できるようにした。
かってガイウス・グラックスが市民権改革を提案したのは、30年前のこと。人間とは、厳しい現実を目の
前に突きつけられてしか改革はできない。 しかし、この市民権を開放をしたのは大英断であったと
言うべきである。
 ースッラの登場と改革ー
マリウスはもともとローマ市民権さえ持たない出自で、軍団畑をたたき上げでのし上がってきた。
そして40歳でユリウス一門のカエサル家の娘と結婚する。カエサル家はローマでは2流の
家柄だったが、これで名門につながることになる。
  (字数制限のためカット 2010年7月22日)

・・・・・・・
2005年07月22日(金)
 1571, 五稜郭
幕末の混乱期、軍艦・開陽丸を駆って官軍と戦い蝦夷地に共和国を樹立しようとした男たちがいた。
この時期、オランダに派遣されていた榎本は帰国、同じ幕臣として勝海舟の幕引きに反発。
新政府に不満を持つ幕臣新撰組の土方と合流して未開の地・函館の五稜郭に共和国を樹立する。
そこで、官軍の参謀に就任した薩摩の黒田了介(後の内閣総理大臣黒田清隆)率いる軍と熾烈な
戦いを繰り広げる。その戦いの中で、榎本の人柄を知った黒田は全面降伏を勧め彼の命を救う。
しかし土方など幕府方の残党は殆んどここで最期を遂げる。やがて刑期を終えた榎本は新政府の
ロシア交渉特使として活躍する。阿部公房が「五稜郭」という小説で、榎本武楊が政治的に江戸
幕府の残党を纏めて整理する役割になってしまった矛盾を書いている。学生時代に読んで、その
複雑多層の立場を初めて知った。攘夷か開国か、尊王か佐幕か倒幕か、公武合体か。それらの混沌と
した中で維新の歴史は作られていったが、その中で榎本武楊の果たした役割は、結果として皮肉な
結果をもたらした。阿倍公房の小説は、函館の五稜郭で負けた幕府軍の囚人300人が脱走して、
厚岸(あっけし)の海岸から上陸、山の奥深くへ消えていった、という地元の伝承をもとにそれを
追う男の話から始っていた。「蝦夷共和国」という、とんでもない構想に魅力を感じて読んだが、
実は?その背後の複雑な背景を抱えた夢の世界であったという阿倍公房の世界観があった。
もう三十数年前に読んだ本だが印象に深く残っている本である。
 ーーー
ー榎本武楊ー 1836-1908
 (字数の関係でカット09年07月22日)
・・・・・・・
2004年07月22日(木)
 1206, 「半落ち」ー 映画感想 
30万部を越すベストセラー記録を樹立した横山秀夫ワールドの最高峰『半落ち』が映画化され、
今年の1月に公開された。そのDVDが、もうレンタルショップにあった。さっそく借りてきた見たが、
素晴らしい内容であった。 見おわった時、涙が知らずと溢れ出ていた。あとで家内から聞いたが、
みた人のほとんどが泣くという。 私の感想文は、最後に書いてある。
 ー解説と内容(ホームページよりコピーしたもの)を貼り付けておきます。
       (字数の関係で中略カット弐千八年七月二十二日)
< 感想>
母をアルツハイマーで5年半、看護した経験があったので、主人公の深い思いに感情移入をしてしまった。
そして、それに関わる色いろな立場の思惑や利害も、身に憶えのあることばかりで、主人公の心の壁を
探っていく物語は、そのまま自分自身の心の壁を抉りだしているようであった。そして、当時の自分の
心の姿が浮かび上がってきた。辛く悲しい母の姿と家族の、それぞれの立場で必死に生きていた当時の
日々がリアルに浮かんできた。しかし、そこには底知れぬ暖かさがあった。アルツハイマーの身内を
抱えた崩壊一歩手前の家族が、どういう気持ちで毎日を過ごしているか、この映画は深く入り込んでは
いなかった。それもしかたがないが。高齢化社会の、大きな問題がアルツハイマーである。どこの家庭
でも、ぶつかる大きな問題でもある。いまの寝室の寝ているところが、母の寝ていた ところである。
アルツハイマーになった母が夢で月に二回は出てくる。 母は今でも私の中では生き続けている。

・・・・・・・
2003年07月22日(火)
 839, あいうえおー生き甲斐測定法
 今やっていることが、生き甲斐があることか、天職か、ベストかどうかの判定基準として、
あいうえお生き甲斐測定法がある。
「あ」は、アイデア      「い」は、インタレス
「う」が、ウォーク      「え」が、エキサイティング  「お」が、オーナーズシップ
  この内の一つは抜けていてもよいが、二つ以上の場合情熱が感じられなくなる。
「あ」は、要は自分のアイデア、企画かどうか。   
「い」は、興味、関心のこと。
「う」は、歩くことで、行動につながる。待っていたり行動なしでは何も始まらない。
「え」は、エキサイティング。燃えるような情熱の涌くこと。
「お」は、オナーズシィップ。自分でやり遂げたという喜びや自負心ー行蔵です。
 これは藤本儀一の『人間ほど面白い動物はない』サンマーク出版ーの最後に書いてあった内容である。
創業では、これが一つでも欠けていたら上手くはいかない。これを満たした上で総てを注ぎ込んで初めて
動き出すものだ。この5つを満たす為には、いつも随想日記で書いているように、「自分の好きなこと
を見つけて、それに集中する」しかない。私自身、好きなことをして生きてこられたことが
  (字数の関係でカット2008年7月22日)

・・・・・・・
2002年07月22日(月)
464,煮た豆
 母から聞いた言葉で印象的な言葉で「煮た豆」がある。もう出来上がってしまって芽が生えて
来ない豆をいう。人間に喩えると「もう出来上がってしまって、潰しのきかない人間」をいう。
この言葉は自分の自戒の言葉であり、常に前向きでチャレンジと変化と闘いを自分に課し続ける姿勢だ。
ある同?会の大部分が煮た豆だけでなく、納豆のようだ。腐ってしまって、お互い粘粘している。
仕方がないが、もうオカラのような人もいる。豆の質も10歳で殆ど決まってしまうらしい。
「3歳では遅すぎる」というソニー創立者井深大の本があるが。私の見るところ、95?はいや99?
はその範疇だ。もっともその時の優等生も大部分がただの人だが。私のよくいう子狐は「煮た豆」が
必死になって「生豆」を演じている姿だ。いや「生豆」を粘々で絡もうとする姿だ。
そういう自分ももう煮た豆か?こういう文章を書いているといろいろ気づきがでてくる。
・・・・・・・・・
2001年07月22日(日)
 [83] バイキングについて
ー北欧旅行記ー 
バイキングは今より1200年前突然始まり200年で終わったそうだ。キリスト教の影響ではないかと
言われている。面白いのは相続は末子相続で、長男次男はある年令に成ると家から出て行くそうだ。
海は日本の場合お堀の役割だが、夢に向けての希望という。1000年前のバイキングの船がそのまま
発掘されて展示されていた。一艘40人ぐらいの定員で50艘位で攻めていくそうだ。アメリカまでも
行っていたそうで、コロンブスの発見より5^600年さかのぼる事になる。それにしても金髪で背が
高く足が長い、それに美男美女である。料理も上手い!