つれづれに

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 今日は、朝から快晴。やはり、一時間の運動をするか無しかは
気分も体調もちがってくる。

 今年のセ・パ交流戦。巨人が比較的元気なためか面白い試合が多い。
パリーグには、セより個性的な選手が多い様に思われる。

 








・・・・・・
・・・・・・

5933,閑話小題 ~三種類のアラブ人
2017年06月13日(火)  
       <「人間の目利き」 曽野綾子吉村作治
          ~アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法~
  * 三種類のアラブ人
 先週のシネマが、数年前にあったテロを扱った <パトリオット・ディ>。
キリスト教圏のアメリカ社会のイスラム教徒によるテロ事件の実録的物語だが、
アメリカの白人社会は、思いの外、深いプロテスタントの国。黒人だけでなく、
アラブ人は、最下層の人たちと蔑まされている。アラブ人が、欧米社会内で
不平を持つのは当然で、前提が違うのである。、
≪ 吉村: アラブに住む人間には大きく分けて、
 ・アラブ人と、
 ・まったくアラブ人じゃない人と、
 ・アラブの人じゃないけれどアラブに入った人の三種類がいる。
アラブじゃないけど、アラブ人になるためイスラム教を信仰し、同じ
アラブ語を使って人間は、アラブ人同士より、少し信頼度が低いが、
仲間に入れてもらえる。
 アラブの社会では同胞、同法に準じる者、異邦人の3種類しかいません。
異邦人には厳しいルールをつくって対処するのです。それは敵として見て
いるのです。かといって、敵だから殺すというのではなく、敵の中でも、
こっちよりと、全くの敵と区別をしてつきあう多角的な対応です。
しかし真の情報を流すのは同胞に準じる者までで、あとは偽情報だったり、
ブラフだったり、反対情報だったりします。すなわち、情報こそが生きる
術なんです。
・曽野:テントに立ち寄ってみたら、ベトウィンたちが甘い飲み水を
御馳走をしてくれたので、2~3ヶ月後に、お礼に行こうとしたら、運転手が
真っ青な顔をしていやだという。あなたは外国人だからいいが、僕が二度
同じテントに行くと、女か家畜をとりに来たと思われる、って。≫

▼ 20数年前になるが、イスラエルで、ユダヤ教徒も同じように
 ユダヤ人を3分類していると聞いていた。国を持たなかった流浪の民は、
各地で迫害にあって、頼れるのは金銀宝石と思われるようになっていたが、
実は、厳しい戒律の厳守が、キリスト教社会と、そぐわなかったのである。
そしてナチによる虐殺に至る。それがイスラム原理主義の聖戦を唱えるISと
なれば、ことは簡単に収まるわけがない。キリスト教原理主義と、ユダヤ教
原理主義と、イスラム原理主義者のシーア派と、スンニ派の入り乱れた
聖戦である。とすると、日本は島国の地勢の優位性を利用するためにも、
移民の受け入れは、最小にしておくべきというのも理解できる。
この分類は、地域社会にも存在する。例えば… 江戸時代からの老舗の家系。
戦後からの成金。ユータン組。旅の人と警戒される新参者。 …等々。
 これが医師、銀行員、事業の大小とかで、石ころの大小とか、カタチで
ランク付けをされている漫画的コスプレである。で、私だけは違うと、変な
確信を全員持っている。 それも有かと思うが… まあ、ここで止めておく。
 イスラムユダヤキリスト教徒も、「復讐するは我にあり」と、殺戮し
あって。 で、なぜか、以下に続いていく。

・・・・・・
5568,「復讐するは我にあり
2016年06月13日(月)
 時どき、「到底信じがたい偶然」とか、「第六感」とか、「布置」とか、
私の理解外のことに行き当る。倒産となれば、当事者にとっての大惨事。
しかし、他人の不幸は蜜の味。特にリスクを侵さない人生を過ごしたものに
とって、その人生に対しての自己正当化の丁度よい標的にになる。飽きずに
何度も取上げるが、思い込みもあるが、直接的行為をしてきた当人か、家族に
事故か大病が起こることが多い。50歳も過ぎれば何処の家庭内にも、問題が
鬱積しているとしても・・ で浮かんだのが「復讐するは我にあり」の言葉。 
映画の題材にもなった。これは元々、キリスト教の聖書から引用された言葉。 
 ~「復讐するは我にあり」を検索すると~
《 <18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
  「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と
   書いてあります。
 20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
   そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
          <ローマの信徒への手紙12章18節~21節(新共同訳) 》
  ~より分かりやすく解釈すると
【この中の主は、神様のことを言っています。つまり、「誰かから悪いことを
 されても、悪で返さず善い行いで報いなさい。その代わりに私(神様)が代わり
に報復するから、あらゆる人達と平和な関係を作りなさい。】の意味。
キリスト教では、全ての人は死んだ後に裁きを受けて、天国に行くか地獄に行く
かが決まります。悪人は裁きの時に必ず地獄に行くのだから、復讐は神様に
お任せしなさいということなのです。> 
▼ 遥か以前に、相手に放った矢が、回りまわって自分を突き刺す諺に
 <返り矢に当たる>と、<因果応報}がある。三つのブラックスワン
(9・11テロ、 リーマンショック、3・11災害)の直撃だけでなく、
明治維新、太平洋戦争敗戦、そしてアメリカによる強要されたバブルと、
崩壊対する衝撃の認識度が、あまりに甘かった。そのことが、ハードラン
ディングの結果になっていた。新潟駅前に500室を集中させたこともあるが。
 神様を因果応報という自然の摂理とみれば、「復讐するは我にあり」と、
敢えて取りだてることもなし。それぞれの怒りを、ミニ物語として創作し、
時間の経過を待っていれば当面の毒消しになる。<されど、神様!>ですか。
――――
2011/07/12
ユング ー 3
 ユングといえば、「布置」と「共時性」である。 
妻とか恋人の関係がうまくいってない時、家庭内に大きな問題が重なった時に、
職場の上司や異性とトラブルを起こしたり、勤務していた会社が倒産した時に、
大病や大事故が重なったりする。 これらは、何とか原因を特定することも
出来るが(離婚と前後して交通事故にあった場合や、倒産時の関係者の事故率が
異常に高いのは、心が注意散慢になっていたとかで説明出来るかもしれないが)、
因果関係だけで説明できないことが多い。 私の倒産の場合、倒産したのが
30年前の開業前日。1981年3月31日開業、会社消滅が2011年3月30日。
全くの偶然の一致である。幾つかの事業や、幾つかののホテルの立ち上げを
始めると同時に、必ず身近に普段起きそうもない問題が起きる。
回数を重ねると慣れたもので、今度は、これか!と、冷静なもの。
他にも、色いろある・・。
 このことを「図解ーユング心理学」福島哲夫著、で、説明してある。
【  ◆ 布置と共時性について
* 一見別々に起きたことでも、その人にとっては非常に大きな意味を持って
 いる出来事の巡り合わせを、ユングは「布置(コンステレーション)」と
 呼んだ。コンステレーションとは元々は「星座」の意味である。つまり、
 広い宇宙に別々に存在している星が、ある人にはそれらが白鳥の影や竪琴の
 形に見えて、大事な意味を持っているように、個人を取り巻く事象の巡り
 合わせも、大きな意味を持つことがあるということ。 長く会っていない
 友達の名前を思いだしたとたんに、その人から電話がかかってきたようなこと
 なども、布置の一つである。その意味を深く考えなければ、それで終わって
 しまうからだ。
* 共時性シンクロニシティー)と布置との違いは、共時性は、布置よりも
 さらに物理的に簡単には起こりにくい偶然の一致をいう。共時性の有名な事例
 で、ユング若い女性の心理療法を行っているときに、その女性が黄金の
 コガネムシを夢で見たと語った瞬間、コガネムシが部屋の窓にぶつかってきた
 という逸話があります。ユングによれば、この女性患者は、非常に固い合理
 主義者で、自分自身の現実感に堅くしがみついていて、治療にまったく進展が
 なかったのが、この不合理な出来事によって、彼女の変容のプロセスが動き
 始めたという。ユングによれば、このような出来事は、元型の力がはたらいて
 生じるとしている。つまり、人間や、動植物までも含めた存在を支えている
 共通の基盤となるような領域における力が働いて起こった現象だというのだ 】
▼長い間、会ってなかった友人のことを考えていた丁度その時に、その本人から
 電話があったりなど因果関係で説明できないことがあまりにも多い。日本にも
 古来から「虫の知らせ」という言葉がある、とおりである。こういうのは
 科学者は、正面から取り組むことを避けてきた。しかし、ユングは幼年の頃
 から、おかしな感覚を持っていたこともあり、人間の持っている5つの
 感覚外の、シックスセンスの研究に踏み込んだのである。再びユング
 再読を始めたためか連日、奇妙な夢の連続である。

閑話小題 ~我れらは、可愛い囚人ですか!

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   * パノプティコン【panopticon】
 これは面白い。権力者が大衆をコントロールするにも思想的にも応用されて
いる。アフリカや、アメリカ、アジアの進出に、まずは部族長を懐柔し、周辺の
部族を従わせる手法。その前に、キリスト教の普及の下準備がある。 日本は、
天皇を錦の御旗にした国家建設。アメリカにとって、アジア進出のために、
途中から割りこむに、部族長たる天皇を担ぎ出す一派への資金提供。それを
利用した薩長藩を中心とした新たな国家建設が明治政府。そのために、可能な
限り、天皇を神格化し、光を強くする。 それが、現在も続いている。面白いが、
何かしら幼稚で笑ってもいられない。 要するに、中央の高い塔が、皇居と、
霞が関と、中央政府。 万視塔になる。 
 ~その一望監視施設とは…
≪ 中央に高い塔を置きそれを取りまくように監房をもつ円形の刑務所施設。
 ベンサムが考案し、フーコーは管理システムをこれにたとえた。
一望監視施設。万視塔。
 18世紀末に J.ベンサムが考案した監獄のモデルである一望監視施設を意味する。
建築学的構造は中央に監視塔を設け,その周囲に円状の収容施設を配置する。
中央の塔からは収容施設の各独房に監視のための光線が送られるが,それに
よって囚人を監視しつつも監視者の姿は決して見られない環境がつくり出される。
これは監獄の効果的・能率的な経営をもたらす。たとえ監視者がいなくとも,
その光線があるかぎり囚人は監視者の存在を意識せざるをえないからである。
M.フーコーはこの原理が規律・矯正型の権力技術として近代社会全域に応用
されていることを指摘している。 ≫
 ―
▼ ギリシャの時代にも、現在のアメリカ、日本社会の階級制度、見られる
 <3、30、67%の階級社会制度>。 カースト制度は、インドだけではない。
進学で上京して、直ぐに気づくのが、大都会の圧縮された社会構造。その社会
構造が、実は、パノプティコンのシステムで厳然と守られている。
俗にいう『世間』とは、その立ち位置すら気づかない人たち。「知っている
ことしか、私たちは知らない」ことに気づいていないのである。 私たちは、
数多ある牢獄の一つの一員に過ぎない。 失脚した日産のゴーン。この一連の
報道の中に、権力者の優位性の一端が見てとれる。まだ、日本も明治維新の権力
構造そのままが残っている。それも、40億年の生命誕生以来の、情報革命で大元
が揺らいでいる。 トラちゃん曰く …『手前ら、下々のもの、この大統領の
印籠が見えないか!ガタガタいうと、首を叩き落とすぞ!』の高笑いが聞えて
くるようだ。 そして就任当時の側近は誰一人、存在しなくなった。 
ただ、下々は高性能のスマートフォンを手にしていることを知ってか知らずか。
それぞれが一望監視塔を、監視可能になってしまったから… 
さて、如何にウエーブが動いていくのでしょうか。

・・・・・・
6300,読書日記 ~『こんな長寿に誰がした!』 ~2
2018年06月13日(水)
             『こんな長寿に誰がした!』ひろさちや(著) 
   * 「超高齢社会」の病巣
 100歳以上の老人が増加している。しかし、寝たきりにしろ、元気なら尚のこと
周囲は大変である。私の兄・姉が私を含めて9人いた。 そのうち存命が5名。
相方の存命が3名。存命平均年齢が80歳と相成った。末っ子の私も、あと2年半で
後期高齢者の仲間入り。私の鬼門が、この辺りと想定しているが…。
 ライフワークの海外ツアーも、70歳が大きな関所。体力の限界である。
私の弱点は腰痛だが、先回のツアーで限界を実感した。
この年齢で驚いたのが、好奇心が全く衰えないこと。見聞きする何もかもが
面白くて面白くて… 。のんびり、ゆっくり、退屈など、ほど遠い日々。
これを書き続けてきた効用だろう。私たちは老いるにつれ、周囲に迷惑をかける。
それと「しょぼくれ」が、日々増していくことを自ら知る必要がある。我身を
整えるため、少しキツメな日程を組み、フル回転?の日々を過ごしているが、
このまま続けると「死ねない病」に陥る可能性がある。
 もう健康年齢の平均値に到達した。何時、寝込んでも不思議でないが、相方は? 
甲斐甲斐しく介護をするタイプでないから、明るい未来は待ってない。逆も有り
うることを微塵だに考えられない。とはいえ、残された健康年齢のうち、生き
きることしかない。
 週5日のスポーツジム通いも、週3~4回にし、遠くない日に、止めないと、
「死ねない病」になる可能性がある。「死ねない病」の老人が「散歩好きが
悪かった!」と、後悔する話から、底知れない老いの恐ろしさが垣間見た。
死ぬことは恐ろしいが、老いて生きることは更に恐ろしい。 としても、生きて
いる限り、良いこと3.良くないこと1 のバランスの維持は可能だ。
私には、6300の書連ねたブログと、ネット写真集と、4000曲の入ったiPadがある。
それと面白可笑しい笑い経験と、感動体験の行蔵が… 
  ったく、最期は自画自賛かい!
 誰が自分を肯定してくれますか。 孤独は最高の友人。私は、過去に書連ねた
文章が、その時々の永遠に垂直に立っていた心情が…。老いるほど、過去という
友人が増えていく。それにしても、悪い実例が多い。私も含めてだが、好い加減に
生きてきたからだ。その「好い加減」が大事のこともあるから一概に言えないが。
 10年前から、歯医者を除いて、一切、行かなくなった。そこから見ると、血圧が
幾つとか、血糖値が幾つとかの雑談から、何だろう?この人達と… 未病まで
わざわざ穿りかえして。毒(薬)を飲まされてと。そうでしょう。「老いたら、
さっさと死んだら!」とも言えないか。日本だけだよ、一般の人まで一般検診
するなんて国は! チューブに繫がれて、薬づけにされ、死ぬに死ねなくなるよ。
何が「百歳、おめでとう」ですか。「90歳過ぎたら死に損ない」が、現実と、
著者が言いたかったことは! 辛いけど、これが現実。あのトランプを見れば
分かるでしょう。老害では済まされないでしょ。側近も含めて。先が無いのが、
世界政治の決定権を持つなど、もってのほか。本人たち以外に気づいているが、
当人たちは、微塵の自覚無し。60歳過ぎたら、未来を託す政治から排除するのが
自然でしょうが。他人事でなかったから言えること。あなたも、私も老害なの!

・・・・・・
5203,人間だけが、教育されなければならない動物
2015年06月13日(土)
       『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか』堤未果:佐治晴夫対談
 「大地震で森からサバンナに追いやられたサルが四足か二足歩行に進化。
その結果、産道が狭くなり、未熟児の状態で出産。外敵から身を守るための
教育をしなければならなくなった。」という、論旨が面白い。
  * 人間だけが、教育されなければならない動物
≪ 佐治: あるとき、いまのアフリカあたりに、これまでなかったほどの
 大地震が起きました。いまもその痕跡が残っていて、隆起した山のあいだが
陥没して平原になっています。山に吹きつける風は上昇気流になり、雨が降って
山の森は豊かに保たれました。一方、陥没した部分には雨が降らしてカラカラの
サバンナになった。そこにいたサルさんたちは、さあ困った。いままでは木に
登って、遠くを見渡しながら、おいしいものがないか、危険な動物が来ないか
見ていられたのに、カラカラの草原になってそれができなくなってしまった。
 その結果、いつしか、遠くが見通せるように四本足から二本足になって立ち
上がりました。すると身体の背骨の上に頭がのる形になりますから、重くて
大きい脳を獲得できるようになり、人間になったのです。(註)
 ところが、二本足で立ち上がったことから骨盤の広さが70%ト狭くなった。
頭の大きい赤ちゃんを産めなくなり、自然分娩ができなくなります。
そこで人間は、未熟児のまま子どもを産まざるをえない宿命を背負う。
サルは生まれたばかりの赤ちゃんでも、自分で立ち上がって、お母さんの
おっぽいを飲めるけれど、人間の赤ちゃんはお母さんのサポートなしでは
何もできません。つまり、カントがいうように「すべての哺乳類のなかで、
教育されねば一人前になれないのが人間である」ということになります。
だから学校がある。小学生には「それが、君たちが学校で勉強しなくては
いけない理由です」としめくくりました。
<(註)アフリカで、800-1,000万年前に大地溝帯の活動が始まり、周辺に高地や
山脈を含む隆起帯が形成されたことにより、大西洋側から大陸東部に湿った空気
を運んでいた赤道西風がさえぎられると、大地溝帯の東側は徐々に乾燥して森林
が衰退し、やがて草原に変わっていった。森林に住んでいた多くの類人猿は、
この環境の変化に適応できずに絶滅したが、ヒトの祖先は樹上から地上に降りて、
直立二足歩行に移行した。すなわち、乾燥化によって木と木の間隔が広がった
ことにより、木から木への移動を行う際に地面に降りる必要が生じ、ついに
直立二足歩行を獲得した、とするものである。>
▼ 現在では、専門学校・大学を含めると8割が20歳過ぎまで親の庇護が
 必要となる。乳ばなれが出来れば目出度いが、そうはいかないのが人間様。
担任の先生が定年の年のクラス会の二次会で、この歳で、両親が90過ぎても
矍鑠として、自分を見守っている。これほど辛いものはない」とノイローゼ
気味に語っていたが・・ 趣味の世界があれば悩みが半減したのだろうが。
20歳頃に、自分の人生デザインを持てたかどうかが豊饒の人生か、そうで
ないかの大きな分れ目になる。今はネットがあり、情報は手軽に入るし、
趣味の道を深耕するのが比較的恵まれている。要は、意思するかしないか。

・・・・・・
4838,Quirt <内向型人間の時代> ー5
2014年06月13日(金)
              <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
   * ソフトパワー
 国にも、個人にも、内向型、外交型がある。さしずめ、江戸時代は内向型
国家の典型。そのため、鎖国の時代は、江戸文化という円熟した時代でもあった。
そこに外交型国家・米国の到来で大きは節目を迎え、近代国家へと歩み始める。
アメリカのカレッジで、白人系と東洋系の学生の差異に、そのまま見てとれる、と。
東洋系の持っている内なるパワーを「ソフトパワー」と、捉えている。  
   ーそこで、「ソフトパワー」をネットで検索するとー
《 ソフト・パワーとは、国家が軍事力や経済力などの対外的な強制力によらず、
 その国の有する文化や政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、
共感を得ることにより、国際社会からの信頼や、発言力を獲得し得る力。
対義語はハード・パワー。 ・・・ジョセフ・ナイはこのソフト・パワーによる
対外政策の重要性を説く上でブッシュ政権や、その中枢を占めたネオコンという
勢力に対し、客観的に評価または批判をし、軍事力や経済力など強制力の伴う
ハード・パワーにのみ依存するのではなく、アメリカの有するソフト・パワー
を活かすことの重要性を唱えた。  ・・ナイは、ソフト・パワーを構成する
要素を掲げている。ひとつは、その国の有する文化である。その具体的な例と
して文学や美術、高等教育などのエリートを対象とする高級文化や大衆の娯楽
などの大衆文化が挙げられる。ナイはその国が有する文化の価値観に世界共通
の普遍性があり、その国が他国と共通する利益や価値を追求する政策を
とれば、自国が望む結果を獲得することが容易となるとし、一方で偏狭な
価値観に基づく文化では、ソフト・パワーが生まれにくいとする。・・ 》
  ーこの著書のソフトパワーの説明箇所から抜粋ー
《「ソフトパワー」、教授はそれを「火ではなく水によるリーダシップ」
 と呼んだ・・ 「アジア文化では、自分が欲しいものを得るために、しばしば
微妙な方法を使います。それはつねに攻撃的とはかぎらないが、けっして
ぶれない巧みな方法です。 最終的には、それによって多くを達成します。
アグレッシップパワーは相手を打ちのめすけれど、ソフトパワーは相手を
納得させて味方にしまいます」・・ ソフトパワーの実例とはどんなものかと
尋ねると、彼は目を輝かせて、アイデアと心をパネにしている人々のことを
話しだした。たとえば、各種の雇用者団体のまとめ役をしている人々―彼らを
達成するために、力学ではなく信念によって人々を結集してきた。
また、飲酒運転根絶をめさす母親の会は、カリスマ性ではなく思いやりの
パワーで世の中を変えようとする人々の集まりー そうした人々は自分の
メッセージを伝えるのに十分なコミニケーションスキルを備えているが、
本当の強さはメッセージの内容にある。 》
▼ この図式は、都会と、地方の関係と同じ。しかしアメリカを例にとれば、
 そのソフトパワーは、ハードパワーと同じぐらいに、充実していることは、
インターネット先進国ということからも垣間見ることが出来る。現役の時代は、
 パワーソフトの占める割合が高く、御隠居は、ソフトパワーに比重が移動する。
そのソフトは、長年の蓄積が必要。そのためにはハードパワーも必要である。
私のソフトパワーの蓄積は、数十年続けてきた、一日2~5時間の読書。
 最近は、読書からネットとパソコンに比重が移動しているが・・ 
この二年間、スポーツジムのヨガに週二回、参加しているが、これは、
ソフトパワーそのもの。

・・・・・・
5933,閑話小題 ~三種類のアラブ人
2017年06月13日(火)  
       <「人間の目利き」 曽野綾子吉村作治
          ~アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法~
  * 三種類のアラブ人
 先週のシネマが、数年前にあったテロを扱った <パトリオット・ディ>。
キリスト教圏のアメリカ社会のイスラム教徒によるテロ事件の実録的物語だが、
アメリカの白人社会は、思いの外、深いプロテスタントの国。黒人だけでなく、
アラブ人は、最下層の人たちと蔑まされている。アラブ人が、欧米社会内で
不平を持つのは当然で、前提が違うのである。、
≪ 吉村: アラブに住む人間には大きく分けて、
 ・アラブ人と、
 ・まったくアラブ人じゃない人と、
 ・アラブの人じゃないけれどアラブに入った人の三種類がいる。
アラブじゃないけど、アラブ人になるためイスラム教を信仰し、同じ
アラブ語を使って人間は、アラブ人同士より、少し信頼度が低いが、
仲間に入れてもらえる。
 アラブの社会では同胞、同法に準じる者、異邦人の3種類しかいません。
異邦人には厳しいルールをつくって対処するのです。それは敵として見て
いるのです。かといって、敵だから殺すというのではなく、敵の中でも、
こっちよりと、全くの敵と区別をしてつきあう多角的な対応です。
しかし真の情報を流すのは同胞に準じる者までで、あとは偽情報だったり、
ブラフだったり、反対情報だったりします。すなわち、情報こそが生きる
術なんです。
・曽野:テントに立ち寄ってみたら、ベトウィンたちが甘い飲み水を
御馳走をしてくれたので、2~3ヶ月後に、お礼に行こうとしたら、運転手が
真っ青な顔をしていやだという。あなたは外国人だからいいが、僕が二度
同じテントに行くと、女か家畜をとりに来たと思われる、って。≫

▼ 20数年前になるが、イスラエルで、ユダヤ教徒も同じように
 ユダヤ人を3分類していると聞いていた。国を持たなかった流浪の民は、
各地で迫害にあって、頼れるのは金銀宝石と思われるようになっていたが、
実は、厳しい戒律の厳守が、キリスト教社会と、そぐわなかったのである。
そしてナチによる虐殺に至る。それがイスラム原理主義の聖戦を唱えるISと
なれば、ことは簡単に収まるわけがない。キリスト教原理主義と、ユダヤ教
原理主義と、イスラム原理主義者のシーア派と、スンニ派の入り乱れた
聖戦である。とすると、日本は島国の地勢の優位性を利用するためにも、
移民の受け入れは、最小にしておくべきというのも理解できる。
この分類は、地域社会にも存在する。例えば… 江戸時代からの老舗の家系。
戦後からの成金。ユータン組。旅の人と警戒される新参者。 …等々。
 これが医師、銀行員、事業の大小とかで、石ころの大小とか、カタチで
ランク付けをされている漫画的コスプレである。で、私だけは違うと、変な
確信を全員持っている。 それも有かと思うが… まあ、ここで止めておく。
 イスラムユダヤキリスト教徒も、「復讐するは我にあり」と、殺戮し
あって。 で、なぜか、以下に続いていく。

・・・・・・
5568,「復讐するは我にあり
2016年06月13日(月)
 時どき、「到底信じがたい偶然」とか、「第六感」とか、「布置」とか、
私の理解外のことに行き当る。倒産となれば、当事者にとっての大惨事。
しかし、他人の不幸は蜜の味。特にリスクを侵さない人生を過ごしたものに
とって、その人生に対しての自己正当化の丁度よい標的にになる。飽きずに
何度も取上げるが、思い込みもあるが、直接的行為をしてきた当人か、家族に
事故か大病が起こることが多い。50歳も過ぎれば何処の家庭内にも、問題が
鬱積しているとしても・・ で浮かんだのが「復讐するは我にあり」の言葉。 
映画の題材にもなった。これは元々、キリスト教の聖書から引用された言葉。 
 ~「復讐するは我にあり」を検索すると~
《 <18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
  「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と
   書いてあります。
 20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
   そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
          <ローマの信徒への手紙12章18節~21節(新共同訳) 》
  ~より分かりやすく解釈すると
【この中の主は、神様のことを言っています。つまり、「誰かから悪いことを
 されても、悪で返さず善い行いで報いなさい。その代わりに私(神様)が代わり
に報復するから、あらゆる人達と平和な関係を作りなさい。】の意味。
キリスト教では、全ての人は死んだ後に裁きを受けて、天国に行くか地獄に行く
かが決まります。悪人は裁きの時に必ず地獄に行くのだから、復讐は神様に
お任せしなさいということなのです。> 
▼ 遥か以前に、相手に放った矢が、回りまわって自分を突き刺す諺に
 <返り矢に当たる>と、<因果応報}がある。三つのブラックスワン
(9・11テロ、 リーマンショック、3・11災害)の直撃だけでなく、
明治維新、太平洋戦争敗戦、そしてアメリカによる強要されたバブルと、
崩壊対する衝撃の認識度が、あまりに甘かった。そのことが、ハードラン
ディングの結果になっていた。新潟駅前に500室を集中させたこともあるが。
 神様を因果応報という自然の摂理とみれば、「復讐するは我にあり」と、
敢えて取りだてることもなし。それぞれの怒りを、ミニ物語として創作し、
時間の経過を待っていれば当面の毒消しになる。<されど、神様!>ですか。
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2011/07/12
ユング ー 3
 ユングといえば、「布置」と「共時性」である。 
妻とか恋人の関係がうまくいってない時、家庭内に大きな問題が重なった時に、
職場の上司や異性とトラブルを起こしたり、勤務していた会社が倒産した時に、
大病や大事故が重なったりする。 これらは、何とか原因を特定することも
出来るが(離婚と前後して交通事故にあった場合や、倒産時の関係者の事故率が
異常に高いのは、心が注意散慢になっていたとかで説明出来るかもしれないが)、
因果関係だけで説明できないことが多い。 私の倒産の場合、倒産したのが
30年前の開業前日。1981年3月31日開業、会社消滅が2011年3月30日。
全くの偶然の一致である。幾つかの事業や、幾つかののホテルの立ち上げを
始めると同時に、必ず身近に普段起きそうもない問題が起きる。
回数を重ねると慣れたもので、今度は、これか!と、冷静なもの。
他にも、色いろある・・。
 このことを「図解ーユング心理学」福島哲夫著、で、説明してある。
【  ◆ 布置と共時性について
* 一見別々に起きたことでも、その人にとっては非常に大きな意味を持って
 いる出来事の巡り合わせを、ユングは「布置(コンステレーション)」と
 呼んだ。コンステレーションとは元々は「星座」の意味である。つまり、
 広い宇宙に別々に存在している星が、ある人にはそれらが白鳥の影や竪琴の
 形に見えて、大事な意味を持っているように、個人を取り巻く事象の巡り
 合わせも、大きな意味を持つことがあるということ。 長く会っていない
 友達の名前を思いだしたとたんに、その人から電話がかかってきたようなこと
 なども、布置の一つである。その意味を深く考えなければ、それで終わって
 しまうからだ。
* 共時性シンクロニシティー)と布置との違いは、共時性は、布置よりも
 さらに物理的に簡単には起こりにくい偶然の一致をいう。共時性の有名な事例
 で、ユング若い女性の心理療法を行っているときに、その女性が黄金の
 コガネムシを夢で見たと語った瞬間、コガネムシが部屋の窓にぶつかってきた
 という逸話があります。ユングによれば、この女性患者は、非常に固い合理
 主義者で、自分自身の現実感に堅くしがみついていて、治療にまったく進展が
 なかったのが、この不合理な出来事によって、彼女の変容のプロセスが動き
 始めたという。ユングによれば、このような出来事は、元型の力がはたらいて
 生じるとしている。つまり、人間や、動植物までも含めた存在を支えている
 共通の基盤となるような領域における力が働いて起こった現象だというのだ 】
▼長い間、会ってなかった友人のことを考えていた丁度その時に、その本人から
 電話があったりなど因果関係で説明できないことがあまりにも多い。日本にも
 古来から「虫の知らせ」という言葉がある、とおりである。こういうのは
 科学者は、正面から取り組むことを避けてきた。しかし、ユングは幼年の頃
 から、おかしな感覚を持っていたこともあり、人間の持っている5つの
 感覚外の、シックスセンスの研究に踏み込んだのである。再びユング
 再読を始めたためか連日、奇妙な夢の連続である。

つれづれに

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 今朝方も晴れて、ポタリングをしてきた。
しかし、その後は雨模様に… 降ったり止んだり。






・・・・・・
・・・・・・

4096、私は完全な本 "日本フル自殺 'ー2を作った
2012年6月12日(火)
  * 21の文明の「種」と、現在残っている7+3の「種」
 この冒頭の文明の記述が、現時点の文明の立ち位置を知るによい。
5大文明の起源だけでは現代を捉えるに無理がある。情報化社会の到来が、
この文明の地域割り、民族割り、国家割りを、根こそぎ変え、現在は大断層
の真只中にある。中学校の教科書では5~6千年前に五大文明が生まれ、
その延長上の文明が現在に至っているとある。学生時代にトインビーを知り、
文明の発展史の解釈に驚いたことを憶えている。 ーこの本の冒頭から
【 われわれの知っている最古の文明の出現は、現代から六千年以上さかのぼる
 ことはできない。しかし、この六千年の歳月の間に、ミノス、シュメル、
マヤ、インド、シナ、シりア、ヒッタイト、バビロニァ、アンデス、メキシコ、
カタン、エジプト、ヒンズー、イラン、アラビア、ヘレニック、西欧、正教
キリスト教、極東など、二十一の文明の「種」が発生し、成長し、あるものは
やがて没落し、消滅していった。二十世紀の現在なおこの地球上に生き残って
いる文明の「種」は、西欧文明、近東における正教キリスト教世界の本体、
ロシアにおける正教キりスト教世界の分枝、イスラム社会、ヒンズー社会、
シナにおける極東社会の本体、日本における極東社会の分枝、の七つの「種」
と、ポリネシアエスキモー、遊牧民の三つの「種」の発育停止文明であると
トインビーは分類している。 過去六干年間におけるこの二十一の文明の「種」
の栄枯盛衰の歴史のドラマとその比較研究は、文明の発生、成長、挫折、解体
の原因やその一般的パターンについて、われわれになんらかの示唆を与えて
くれるものなのか。そしてまたこの歴史の教訓は、現代文明の進路選択、
日本社会の進路選択にもなんらかの寄与をしてくれるものなのであろうか。
こうしてわれわれは、特に文明の没落過程の共同研究に着手したのであった。】
▼ 中年期を終え老年期に差し掛かると、哲学、歴史に、より興味が増す。
 人生を振り返ると、そこに人類の歴史と重ねてみたくなる。シナが極東社会の
本体なら、日本は極東社会の分枝の中の己を歴史的位置から逆照射して、個々の
卑小さを確認することで、砂利同士の大きさや、変形の比較を気にしない心理
作用に効果的である。人生を実際に60数年間、生きてみて思う5千年の実感は、
  学生時代のそれとは全く違うもの。この情報化は人類のあり方を根本から
変えている。悲観的にも楽観的にもなるが・・・面白い!
 
・・・・・・
5932,閑話小題 ~人生、「あいうえお」が重要
2017年06月12日(月)
        <「人間の目利き」 曽野綾子吉村作治
          ~アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法~
   * 人生、「あいうえお」が重要
 人生でも、事業でも振り返えみると、岐路には「想定」を遥かに超えた
ブラック・スワン(経済恐慌、歴史的テロ、自然災害…)が舞い降りて、
それが人生を変えていた。そして、最後は、当人にとっての「己の死」。
宇宙の、世界の中の微小の存在であるなら、当然のことだが、その小ささ、
狭さの認識が全くと言ってよいほどない。「想定外」という言葉こそ、己の
卑小さを露わにする。 アラブから、欧州に「アラブ難民」が大挙して流入
しているが、以下のアラブの「アッラー」の神への信心が大きく影響している。
 ~「あいうえお」の人生訓が考えさせられる~
≪・吉村: 日本人は心配性なんです。こうなったら、そうなったら、
 どう しようと、自分の考えの幅の狭いのを知らないで想定する。
だから、その幅を出たら「想定外だ、しようがない」と思うわけ。
アラブ人からしたら、想定すること自体が、自分の運命に対して、神様に
対して失礼なんです。全てが自分の力より大きな力で動いていると思うと
想定など出来ない。想定があるから想定外があるんで、想定しなくては
想定外はない。「無知の知」みたいだけれど。
・曽野:もとは何もない民だから。食べ物も水さえない。 吉村さん、なにも
ないところで生きていけないとしたらどうします。他人の物を盗むか、殺して
奪うか。あと一つ、自分が死ぬというのがある。しかしイスラムは自殺を禁じ
ている。と言っても、イスラムでは自殺すると復活できないから、自然死です。
・吉村:人生、「あいうえお」が重要なんです。「あ」は〈愛〉。「い」は〈意志〉。
「う」は〈運命〉、「え」は〈縁〉、「お」は〈恩〉です。この「あいうえお」
を大事にしていれば、悪くない運命を過ごせます。≫

▼ 「あいうえお」も、それを生かせるかどうか。逆照射でみると、その
 意味が浮かび上がる。
・「愛」、特に両親からの愛の少ない人。
・「意志」、意志薄弱の人。
・「運命」、節目で、大きく流されていく人。
・「縁」、因縁を生かせない人。因と縁を結合できない人。
・〈恩」、恩義からほど遠い人。
 何か誰かの顔が浮かび上がっているが、自分のことでもある?
想定外の対処は、長年の準備があるかどうか。まずは、日頃からの知識と、
先立つ「お金(資金)」。そして「健康」。そして人とのつながり。とすると、
「あいうえお」に行きつく。今思いついたのが、「たちつてと」の教訓。
「た」が、飯の基盤の「田」。
「ち」が「知恵・知識」。
「つ」が、「ツテ
「と」が、「とき」。何ごとも時間が大元。 
言葉の遊びだが、一理ある?

閑話小題 ~日々・是・好日 ー2

f:id:horii888888:20160919205608j:plain

   * つれづれなるままに
       ~『こんな私に誰がした!』 ですか。

 口癖になって繰返しになっているのが、
『あっという間に、1日、1週間、1月が経ってしまう!』
リタイア後、日を追うごとに、その感が強くなっている。ストレスが
減っていることと、大して変わり映えのしない日程が、そう思わせている。 
 ところで、リタイア後、似た状況の人は、どう過ごしているか気になる?… 
アメリカの話だが、7割が、誰と会うでなく、身近のスーパー、HCでブラブラ
しているだけ。日本人は群れを好むとはいえ同傾向にある。 もっと旅行など
趣味の集まりや、ボランティア活動に専念と思っていたが… そうでもない。
それまで長年かけたライフワークと、教養のベースが有りか否か。

 シネマ館で、私と同年代の観客が多く見られる。このところ、映画そのものが、
デジタル機器の向上で圧倒的に面白味が増しているとしても…  僅か千百円で、
幻想世界にアッという間に誘ってくれる。それは家庭内の大型高感度TVでも可能。
問題は、それらを消費する時間が足りないこと。
 ところで、映画や、ドラマをただ万遍に見るのではなく、「何に対して、
何をみるか」の視野が必要ではないかと。遊びの分野に、小難しい話は何だが、
私は、ストレス解消。一日、週、月、年単位で、それらを潰していく。
 映画・ドラマの物語の中で、喜怒哀楽や感動を、味わうこと。 ベッド前の
ブルーレイに自己評価85点の録画が300本と、YouTubeも控えてある。ネットも
含めると‘何か陽気な自閉症’? 体感は少ないとしても、脳幹に直接、響く。

 現職に携っていた時は、目先を含めた将来と、現実社会のウエーブに
エネルギーの大部分を吸取られていた。 リタイア後の現在、先の心配、気遣い
のエネルギーが、フラッシュのように現れ出てくる記憶から、当時、気づかな
かったことがリアルに見えてくること屡々。それはそれは… 沈思黙考なれば
こそ、稲妻のような光と轟音に圧倒される。夜半の0~2時半の、サイレント・
ブルーの中で、フラッシュとして轟音と稲妻が襲いくる。
とはいえ、それもこれも、過ぎ去ったことは妄想の類? でしかない、 
今さら後悔しても… 成るほど、これが『日々是口実』ですか。
 
後記(2019年06月12日): 以下のテーマをみて、
 『こんな自分に誰がした!』の言葉が… 最近、何やら後悔すること多し?
 それでも、私の人生、けっこう気に入ってるけど! 
「しない成功より、してしまった失敗」レベル… の話だけれど。
 
・・・・・・
6299,読書日記 ~『こんな長寿に誰がした!』
2018年06月12日(火)
             『こんな長寿に誰がした!』ひろさちや(著) 
   *‘人生100年’は本当にいいことか?

 曽野綾子の、<人生の良いとこ60歳まで>説を、50歳ごろに知り、「10年間を、
30年分に圧縮して生きた経験」を何度か、ここで書いてきた。 現在から考えて
みて、これが良かったと深く実感している。60歳を過ぎて、遣り残し感が少ない
ため、気持ちに余裕が持てる。会社清算に対しても、節目の時節到来と… 
迷いなく処理をすることになった。
 この年齢に自分が到達しようとは思ってなかったので、年々、変わりいく、
年齢の日々が、何とも新鮮である。
 「年寄りとは、自分より5歳年上をいう」という言葉がある。成るほど、私の
「5歳年上」は、77歳になるが、やはり75歳が分岐点で、止まることない老化を
実感する年齢のようだ。 私も、あと良いとこ2~3年と実感はしている。
姉が二人、80歳に到達したが、見るからに厳しいそうだ。特に81歳が鬼門。
100歳まで親が生きたとしたら、それも矍鑠としていたら、周りは?
   
《 ー内容紹介ー
人生100年」は、本当にいいことか? 延命治療を選ばざるを得ない医療の現実。
「治るはず」と、現実を受け入れられない患者と家族。経験を若い世代に伝えず、
権利の主張ばかり覚えたシニア世代。 誇るべき長寿とは違う形で超高齢化を
加速するこの国のありように、宗教思想家が鉄槌を下しつつ、本当に幸福な人生
の締めくくり方を提案する。
  ーカスタマー・レビューー
【 生きることは苦しい。老人は長生きしたことが幸せか。枯れることが大事。
 知識ではなく知恵。病気のとらえ方。そして減ることのない欲。こういった
永遠の真理がつづられています。所々で、キリスト教徒と仏教の智慧と心理は、
過去はパーソナルな形で時代を超えて伝達されていたのですが、このような形
での伝達が不可能となった今、著者はこの作業を自分の使命と考えているよう。
真理を指摘するのは簡単だが、実践することが難しい。実践できないまでも、
頭の片隅に置いておく。それくらいかな、凡人にできるのは。】

▼ はからずして、ここまで生きた実感は、「ここまで生きて、21世紀の実相の
 一部を垣間見ることが出来て本当に良かった。 年々の老化現象はあるが、
この激変の時代の一年一年の時代の重みを経験出来るだけで、充分、価値がある。」
人生、100歳までは?だが、やはり75歳辺りが死に時か! あと2年半ですか。
紀州ドンファンという痴呆症老人を見るにつけ、死際の難しさを知らされた。
ここで、「死ねない病」について述べているが、最も恐ろしい病のようだ。
誰知れずに自分の死を申告し、清潔な環境の死の家に入居し、スッと死ねる施設
があれば… 自ら死ぬ権利があってしかるべきだが。健常状態で、せめて5年は!
2年半と変わらない? そう思って生活していると、毎日がエキサイティングに。
このまま医療制度が拡充されると、100歳まで死ねなというが… それこそ残酷。
程ほどに…
  
 ~で、5年前の文章に続く 成るほど!
・・・・・・
4470, 最悪の結果に隠された、お宝は?
2013年06月12日(水)
   * この結果に意味があるとすると、それは何?
 「三羽の黒鳥(9・11テロ、リーマンショック、3、11震災)の到来で、
この結果に終ったのに何か意味(価値)があるか?」が、問いかけとして残る。
これまでの人生の節目で、最悪の状況こそチャンスが隠されていた。今回も下手
に切り抜けるより、早々に止めた方がベストだった。 この一連の三羽の黒鳥の
到来前に、日本は支配国アメリカによる意図的なバブル経済の生成と、崩壊が
あった。機を同じくソ連の崩壊と、中国の共産党支配化での資本主義経済の導入
で、世界を二分していた垣根が無くなった。更に欧州の経済統合による大混乱と、
アメリカの衰退が重なり、ここにきて一挙に混迷を深めている。 さて、私に
とっての今回の一連の隠されたベストの意味=価値は何だろう?の問いかけ。
《 森の生活からキレイサッパリと決別し、サバンナの生活というより、
 死に支度をすべし! そして、森の生活で、切り捨て目を背けてきたことに
対する再考。さらに、せっかく奇跡の星に人間として生まれたのだから、もっと
世界の広さと深さを知り、経験し、味わうこと 》が、結論。
「早々に隠遁生活に入り、老いと死に準備に本気に入れ」ということ。
 昨日の随想日記に書いたが、日本人男性の健康年齢(寝たきりや介護を受けず
日常生活ができる年齢)が70歳。死亡平均が79歳からして、9年の介護が必要。
80歳を過ぎなら分かるが平均としても、「70歳から10年間も、介護など誰かの
世話になる生活が待っている」とは思いもしなかった。「好きなことが出来る
のも、そう長くない」ことになる。9年間の不自由な介護状態なら長生きも
考えもの。 還暦を過ぎた辺りから生老病死の問題が、真正面からやってくる。
60歳までに、やりたい事をやり尽くした感があるので、焦りは少ないが、
甘くない近い将来が待っているのが現実である。そこで、「一日一日を、面白
おかしく生きる」しかない。また自分の「知識の球」「経験の球」の外側を少し
でも広げることだ。もっと人生の少なさに焦るべきは、身近な人の死をみれば
分かる。そういう年齢に入った自覚をより持つべきである。前期高齢者に入った
65歳が、森の樹上の生活も早々止めて、一度、森から離れ、世界を見直す時節。
「今さら、そんな小さな己の世界を広げてみたとて、何になる」というが、そう
としても、前向きに倒れた方が良い。知ること、行動すること、愛することを、
死ぬ瞬間まで少しでも広げることである。人生には多くの意味があって面白い!

・・・・・・
5567,閑話小題 ~魂の御馳走
2016年06月12日(日)
   * 魂へ御馳走を与えてますか
 TVを観ていると、【ご馳走をするからと誘われ連れていかれた先が美術館。
そこで、『芸術作品が、魂への御馳走』と言われて吃驚した】と粋な場面が。
 そこで私の魂への御馳走は何だったか考えてみた。幾つかの一つに、51回の
『海外ツアー』がある。資金的、時間的、精神的にも長年かけて、強硬な意思を
貫ぬかなければ不可能。心が折れそうな時、というより魂が衰弱した時、秘境、
異郷での大自然との邂逅や、立寄った美術館での名画との感動が魂への御馳走
になる。哲学の始祖であるソクラテスの、「人生の目的が魂の鍛錬」ならば、
大自然や、人類の歴史に残る芸術作品との触媒の感動で、自ら魂に滋養を与え
続けなければならなかった。40~50歳代に年2回の秘境・異郷旅行の感動こそが、
魂の御馳走であった。魂の疲れが感動の滋養を必要としため、惹きつけられた
のである。親は子供に、幼児期から一流の芸術作品や音楽をシャワーのように、
浴びせ続ける義務がある。 聞くところによると、家内は10歳代半ばまで、
あらゆる習い事に通っていたという。幼少期に、こういうのに多く接触させて
おかないと、俗にいう、「世間人」になってしまう。 彼らは、噂話という
『毒団子』の餌で、魂をやられ、ゾンビになる。 幼児時期から少年期の頃、
父親は暇が出来ると、私を連れて古美術店に行き、茶道具や、仏像、絵画に
触れさせていたのも、一流品を幼児期から触れさせるためだったようだ。 
そのお陰か、逆に、『そういう物は、自分が所有をするのではなく、美術館で、
幅広く鑑賞し、多くの作者の魂と触れるべきで、何故にわざわざ買うのか?』
と思っていた。 感動、感激、歓喜、感謝は、人間の感情の最たる部類になる。
それは、所有をしなくても可能なこと。 大自然が数億、数千万年かけて作り
上げた景観に自ら近寄り、荘厳な世界に我を忘れ、感動するのが魂への最高の
御馳走。大都会の良さは、美術館や大ホールが多くあり、一流の芸術作品や、
演劇などに多く触れる機会が多くある。地方の良さは、自然の懐が深いこと。
 どちらも、それを感じ、受止める基礎がなくてはならないが。せっかく、
地球に生を受けたのだから、魂へ滋養を与え、鍛錬しなかれば生まれた甲斐が
ないではないか。余裕がない? ならTVを通して滋養は充分に取ればよい!

・・・・・・
5202,「人生はドラマだ」の演繹論的アプローチ
2015年06月12日(金)
      ~『社会学~フシギなくらい見えてくる!』現代位相研究所(著) 
   * ドラマトゥルギー
 哲学では、古来から人生を演劇に例えて、役割、演出、観客の目線から、
人生の意味を考えていた。それを社会学者が研究対象にしたのが以下である。
≪ 「人生はドラマだ」といわれることもあるが、まさにそのようなものとして
社会を研究した学者がいる。アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンである。
ゴフマンは、人々が日常生活の中で、まるで舞台俳優のように演技し、周囲に
与える印象に気を配りながら行動しているという観点から、そのさまざまな実践
を詳細に描き出そうとした。ゴフマンのこのアプローチを「ドラマトゥルギカル
アプローチ」(演劇論的アプローチ)という。
ゴフマンの指摘によれば、私たちは常に「会社員」「親」「教師」「患者」と
いった社会から与えられた役割を状況に応じて演じ(役割演技)、自分の与える
印象を管理している(印象管理)。しかしゴフマンは、人々がただ自分の都合を
よくするために印象管理を行なっているといいたかったわけではない。
ゴフマンは、印象管理が時に舞台の維持を、つまりその場の秩序を維持するため
にも行なわれている、という点に着目した。「この状況では誰がどういう役割を
果たすべきなのか」という「状況の定義」が参加者に共有され、それぞれが役割
演技を行なうことで初めて、日常生活が成り立つと考えたのである。
 たとえば教師が生徒の前で、自分のわからないことを巧妙に隠そうとしたとする。
もちろんこれは自分の体面を守るために行なわれていることでもあるだろうが、
その一方で「学校の授業」という状況を守るためにも行なわれている。
教師は生徒に勉強を教え、生徒は教師の授業を聞く。「学校の授業」は、「教師」
「生徒」という役割に基づいた一つの舞台であり、これが壊れてしまえば、
まさに学級崩壊になってしまいかねない。
しかし、人は一方的に与えられた役割を演じるばかりではない。役割から敢えて
距離をとり、そこに役割から離れた別の自分を示そうとする場合がある。これを
「役割距離」と呼ぶ。「学校をサボる」ことを考えてみるとわかりやすいだろう。
往々にしてそういう場合、学校をサボって何かしたいことがあるというよりも、
それによって「生徒」という役割から距離をとることが第1の目的だったりする。
ゴフマンは、ドラマトゥルギーという観点を通じて、日常生活がごく些細な
不具合で破綻する壊れ物であり、役割演技と役割距離との駆け引きによって成り
立つ動的なものであるということを示そうとしたのである。「人生はドラマだ」
という言葉の通り、この観点は一見当り前のように思えるかもしれないが、
「現実が事実としてどうであるか」ではなく、「人々にとって現実はどう成り
立っているか」に視点を転換させることによって、人々のコミュニケーシヨンの
あり方を研究するために重要な役割を果たしているのである。 ≫
▼ 「世間様」の人々も、それが現実という幻想なら、それに同調するのも、
 一つの在り方であり、役割ということになる。硬く、蛇蝎のように嫌うことも
ないのである。旅行の効用の一つに、日常から「役割距離」を置いて、自分を
改めて見つめる効用がある。「印象管理」も、目新しい言葉だが、「役割演技」
に、必要なこと。その名人が、かのクレオパトラ。自分の美貌をわきまえ、
それを際立たせる「印象管理」が、抜群だったという。創業の組織つくりが、
そうである。役割を想定して人材を集め、訓練を入れ、役割を実行させる。
会社整理も、この視点からすると興味深い演劇になる。軟着陸?だからいえる?

・・・・・・
4096、私は完全な本 "日本フル自殺 'ー2を作った
2012年6月12日(火)
  * 21の文明の「種」と、現在残っている7+3の「種」
 この冒頭の文明の記述が、現時点の文明の立ち位置を知るによい。
5大文明の起源だけでは現代を捉えるに無理がある。情報化社会の到来が、
この文明の地域割り、民族割り、国家割りを、根こそぎ変え、現在は大断層
の真只中にある。中学校の教科書では5~6千年前に五大文明が生まれ、
その延長上の文明が現在に至っているとある。学生時代にトインビーを知り、
文明の発展史の解釈に驚いたことを憶えている。 ーこの本の冒頭から
【 われわれの知っている最古の文明の出現は、現代から六千年以上さかのぼる
 ことはできない。しかし、この六千年の歳月の間に、ミノス、シュメル、
マヤ、インド、シナ、シりア、ヒッタイト、バビロニァ、アンデス、メキシコ、
カタン、エジプト、ヒンズー、イラン、アラビア、ヘレニック、西欧、正教
キリスト教、極東など、二十一の文明の「種」が発生し、成長し、あるものは
やがて没落し、消滅していった。二十世紀の現在なおこの地球上に生き残って
いる文明の「種」は、西欧文明、近東における正教キリスト教世界の本体、
ロシアにおける正教キりスト教世界の分枝、イスラム社会、ヒンズー社会、
シナにおける極東社会の本体、日本における極東社会の分枝、の七つの「種」
と、ポリネシアエスキモー、遊牧民の三つの「種」の発育停止文明であると
トインビーは分類している。 過去六干年間におけるこの二十一の文明の「種」
の栄枯盛衰の歴史のドラマとその比較研究は、文明の発生、成長、挫折、解体
の原因やその一般的パターンについて、われわれになんらかの示唆を与えて
くれるものなのか。そしてまたこの歴史の教訓は、現代文明の進路選択、
日本社会の進路選択にもなんらかの寄与をしてくれるものなのであろうか。
こうしてわれわれは、特に文明の没落過程の共同研究に着手したのであった。】
▼ 中年期を終え老年期に差し掛かると、哲学、歴史に、より興味が増す。
 人生を振り返ると、そこに人類の歴史と重ねてみたくなる。シナが極東社会の
本体なら、日本は極東社会の分枝の中の己を歴史的位置から逆照射して、個々の
卑小さを確認することで、砂利同士の大きさや、変形の比較を気にしない心理
作用に効果的である。人生を実際に60数年間、生きてみて思う5千年の実感は、
  学生時代のそれとは全く違うもの。この情報化は人類のあり方を根本から
変えている。悲観的にも楽観的にもなるが・・・面白い!
 
・・・・・・
5932,閑話小題 ~人生、「あいうえお」が重要
2017年06月12日(月)
        <「人間の目利き」 曽野綾子吉村作治
          ~アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法~
   * 人生、「あいうえお」が重要
 人生でも、事業でも振り返えみると、岐路には「想定」を遥かに超えた
ブラック・スワン(経済恐慌、歴史的テロ、自然災害…)が舞い降りて、
それが人生を変えていた。そして、最後は、当人にとっての「己の死」。
宇宙の、世界の中の微小の存在であるなら、当然のことだが、その小ささ、
狭さの認識が全くと言ってよいほどない。「想定外」という言葉こそ、己の
卑小さを露わにする。 アラブから、欧州に「アラブ難民」が大挙して流入
しているが、以下のアラブの「アッラー」の神への信心が大きく影響している。
 ~「あいうえお」の人生訓が考えさせられる~
≪・吉村: 日本人は心配性なんです。こうなったら、そうなったら、
 どう しようと、自分の考えの幅の狭いのを知らないで想定する。
だから、その幅を出たら「想定外だ、しようがない」と思うわけ。
アラブ人からしたら、想定すること自体が、自分の運命に対して、神様に
対して失礼なんです。全てが自分の力より大きな力で動いていると思うと
想定など出来ない。想定があるから想定外があるんで、想定しなくては
想定外はない。「無知の知」みたいだけれど。
・曽野:もとは何もない民だから。食べ物も水さえない。 吉村さん、なにも
ないところで生きていけないとしたらどうします。他人の物を盗むか、殺して
奪うか。あと一つ、自分が死ぬというのがある。しかしイスラムは自殺を禁じ
ている。と言っても、イスラムでは自殺すると復活できないから、自然死です。
・吉村:人生、「あいうえお」が重要なんです。「あ」は〈愛〉。「い」は〈意志〉。
「う」は〈運命〉、「え」は〈縁〉、「お」は〈恩〉です。この「あいうえお」
を大事にしていれば、悪くない運命を過ごせます。≫

▼ 「あいうえお」も、それを生かせるかどうか。逆照射でみると、その
 意味が浮かび上がる。
・「愛」、特に両親からの愛の少ない人。
・「意志」、意志薄弱の人。
・「運命」、節目で、大きく流されていく人。
・「縁」、因縁を生かせない人。因と縁を結合できない人。
・〈恩」、恩義からほど遠い人。
 何か誰かの顔が浮かび上がっているが、自分のことでもある?
想定外の対処は、長年の準備があるかどうか。まずは、日頃からの知識と、
先立つ「お金(資金)」。そして「健康」。そして人とのつながり。とすると、
「あいうえお」に行きつく。今思いついたのが、「たちつてと」の教訓。
「た」が、飯の基盤の「田」。
「ち」が「知恵・知識」。
「つ」が、「ツテ
「と」が、「とき」。何ごとも時間が大元。 
言葉の遊びだが、一理ある?

つれづれに

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 今朝は、3時起き。 随想日記を書きあげた後、
曇天の中、ポタリングに出発。何と降られないで済んだ。

 空は晴れてきたが、どうなることやら。








・・・・・・
・・・・・・

4095, 古代ローマ皇帝の最期は?
2012年06月11日(月)
 先月、ローマ人が現代日本にタイムスリップし2000年の時空を行ったり来たりする「テルマエ・ロマエ
という映画をみてきた。当時のローマ皇帝は体制を維持するため、何処の街にも劇場とローマ風呂をつくり
住民を懐柔する政策をとっていた。そこで歴代のローマ皇帝の最期が如何なるものかを調べてみたところ、
その最期は壮絶なものが多い。 ーネット調べてみると
≪ 初代オクタヴィアヌス・アウグスツ帝(BC27)から、最後のアウグスツス(AC476年)まで、
 503年間に、皇帝は81を数えた(名前だけの神聖ローマ帝国は、1806年までも続いていたが、ここ
では省く)81人という数も見方によって違いが出る。時どき数人併立したりしたからである。とりあえず
81人として、 平均在位年数は六年四ヵ月、あまり長くはない。奇妙な偶然だが、古代ローマの継承者を
次々と自ら任じた歴代ローマ教皇の平均在位年数が、やはり六年四カ月になる。その諸帝の最期は、暗殺、
毒殺、強制された自殺、反対派に捕まって処刑などが34、戦死9、事故死1、計44人が非業の死。死因すら
もはっきりしないのが17帝で、ローマ式ベッドの上で死ねたのはわずかに20帝、四人に一人でしかない。
平均の六年四カ月以上在位できた皇帝は22人、これも四人に一人にすぎないが、その中に、強制自殺させられ
たネロや、親衛隊に殺されたコモドゥスなど非業死を合んでいる。残る12帝も暗殺未遂などあったはず。≫
 とあった。
▼ これだけ絶大で安定していた古代ローマ帝国のトップの地位は、逆に非常に不安定であった。そこから
 人間的な権力闘争が垣間見るることが出来る。人間の権力欲と闘争本能は決して変わることがない人間の業。 
未来永劫、この業による争いは変わらず続くのだろう。人類は歴史から何も学ばないのである。日本の首相は
仕組みからみて一年間袋叩きでズタズタにする。実はズタズタは国そのものであるのに、鬱憤をトップ攻撃に
向ける。目先の安易を求め、国が破綻しようが構わないギリシャと同じ。
・・・・・・
3729, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー  ~⑥
2011年06月11日(土)
                『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
【  * 常に主導権を確保せよ -そのためにー
 「スペンスさん、あなたは私たち陪審員を信用していなかったんですか」「もちろん、信用していました。
どうしてですか」。私はあわてて答えた。「あたは大変苦労して、私たちが人格の優劣によって、この評決を
下すのではないかと、心配している」とばかり話していたからです。私たちは事実に基づいて評決を下した。
どちらが魅力ある弁護士か、で決めたのではありません」 突然、私は「自分」に魅力がないことを証明して
しまったのだと気づいた。手遅れだった。私は自分の言い分の正当性を陪審員に主張するよりも、相手の弁護士
を非難することに時間を使ってしまったのだ。 私が相手にあまりに多くの力を与えたために、彼の主張は私
自身の主張よりも正しいことになってしまったのだ。私は自分の敵が誰なのか、まったくわかっていなかった。
 私は自分が作り出した絶対に勝ち目のない巨人に立ち向かっていたのだ。私は自滅したのである。私は
この巨人に、私を打ち負かすのに十分な力をそっくり与えてしまったのだ。 あのころは、今私がここで教え
たいと思っていることをまだ学んでいなかった。それは学ぶのも覚えるのも大変な勉強だ。私たちはしばしば、
自分が得意としていない分野を得意とする相手に出会う。ほとんどの相手は自分より聡明で、博識で、頭の
回転が速く、外見もいい。相手のカを心配することに時間とエネルギー、全ての力を浪費し、相手に自分の力
を与えてしまう。 どんな議論をどんなにうまくやってのけても、相手を変えることはできない。自分の力で
変えることができるのは、自分自身だけだ。それ以来、相手に自分の力をこれっぽっちも渡すまいと私は
思っている。私は自分の力を自分の手元にしっかりと置いておく。そして自分の主張の準備をするため、
自分の主張に気を配るため、そして自分の依頼人の心配をするために使う。 私は自分に話しかけてくる、
かすかな声に耳を傾けることを覚えた。「大丈夫。君なら十分できる。もし自分自身を見つけ、ありのままの
自分でいることに力を使えば、もしできるだけ誠実に自分自身を表現すれば、もし子供らしさの最後のかけら
が残っているところ、つまり何の邪心もない心の奥底から話をすれば、そこからすべての本当の力が生まれて
くる。それで十分だ」。 】
▼ 相手に気を奪われ、自分の内なる知恵に耳を傾けなかった大失敗を通して、主導権を取るとは如何いう
 ことか学んだのである。相手に気を取られ、それが自滅を誘ったのである。それより準備をし、自分の内
なる声に従って対峙して主導権を取る方が近道。その辺のことが分からないから自滅をすることになる。
ようするに自分のペースで議論を運ぶこと。そのためにシナリオつくりの準備を充分にすることである。
これは議論だけでない、人生も同じ。人生のシナリオと、その準備を数十年かけ作ること。
シナリオが狂った?
 ・・・・・・・
3364, 人みな骨になるならば ー14
 2010年06月11日(金)
 * どうということはない地位と財産  P-126
≪ 財産や地位などというものは、「あるに越したことはない」のである。ただし、「あるからといって、
あるいは、ないからといってどうということはない」という点を忘れるのは問題である。現実に財産や社会的
地位のあるものの殆んどは、「あるからといってどうということはない」点に気づきにくい。また恵まれ
ない者ほど、「あるからといってどうということがない」と信じたがりすぎる。もし「あるからといって
どうということはない」のなら「ないからといってもどうということはない」のだ。古来の聖賢たちが、
財産や地位を警戒してきたのは、ひとつには、いったん得てしまうと今度はそれを失わないために汲々として
しまいがちなこと、あるいはさらなる欲望にとらわれがちなるとによる。なぜ、これらが警戒しなければなら
ないことかというと、それによって人生が空費されてしまうからである。財や名声を追い続けていると百年に
満たない生涯はたちまち尽きてしまう。 ・・・ 財産や地位の空しさを論証するのはたやすい。
「あの世まで持っていけるものではない」からである。一生かかっても使い切れない資産というのは食べ
きれない料理と同じである。歴史に残るほどの偉業をなしても人類の歴史そのものが永遠ではない。
世界一の金持ちもいずれ死んで財産はそのうち四散する。世界の帝王になったとしても跡目は誰かに譲る
か簒奪される。≫
▼ 以上だが、分かっていても囚われるのが人間。「死んで三日もすれば三百年前に死んだと同じこと」と
 ハッキリと自覚すれば、何も目先のことに気持ちが大きく揺れることもないだろうに。生きていること自体
が最も大事なことに気づく時は、死を自覚した時など切羽詰らないと、なかなか無い。ここで、著者が最後に
指摘しているように、「好きなことをして自然に転がり込んでくるような名利でないかぎり、我が身や時間を
切り売りしてまで欲しがるべきではない。百億の資産、大臣の椅子といったところで、所詮はサルが食べきれ
ないほどのエサを掻き集め、あるいは、ひとつのサル山での順位を目一杯あげただけだ」ということ。われわれ
にはもっと他に大事なことがあるはずだが。 無いよりも、有ったほうがと、言うのが本音になるが・・・

・・・・・・・・
2989,歩く木
2009年06月11日(木)
 歩く樹木があるという、その名は”ウォークパーム”。
アマゾンに生息しており、太陽の光を求めたり、成長するための空間を確保するために、根をタコ足のように
伸ばして年に10数センチも移動する。アマゾンの中でも樹木の争いがある。光の当たる方に根を伸ばし陰に
なったほうが腐ってくのだそうだ。50年で5~6メートルも移動するのだから大変なものだ。 
(字数制限のためカット 2012年6月11日)
・・・・・・・・
2008年06月11日(水)
『いのち楽しみ給え』吉川英明編  (講談社
  ーまずは、 第二章 人間の本質 から抜粋してみる
 理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。
西行法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない。
   評)理想ある漂流者、感謝のある孤独か? 詩は心だからである。 (『宮本武蔵』火の巻) 
*今の足の向き方ひとつで生涯大きな違いが生じるのだ。必然こうなるものだと決定された人生などが
 あろうとは考えられない。偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。
   評)必然と偶然、哲学の話になる。               (『宮本武蔵』火の蓋)
*一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却って、
 幸福でない例を見ても、総括した民心というものにも、艱難する時代と、共栄謳歌する時代と、
 こもごもの起伏があっていい。なければ却って、民心は倦む。    「新誉太閤記
*生きようとすれば、あがきの爪が、何かをつかむ。         (『「本太平記」みなかみ帖)
   評)最近の若者の大多数?は、あがきもしない。
*どんな大難も、一過を待てば、おのずから雲間に晴天を見せてくれる。(『「本太平記」帝獄帖)
*「なべて眼のあたりのことは、うこかし難い、また、変るなき鉄則に見えますが、
 どんな現実というものも、じつは間断なく変っています、変るなと願っても、
 推移せずにはおりませぬ。人の境遇も、人お互いの心も」(麻鳥)  (「新・平家物語』静の巻)
*人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。 驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。
 人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。(「三国志」 望蜀の巻)
   評)人を恨めば穴二つ、ということか。
*はたらいた俺にはあるぞ夕涼み 「書簡・詩歌集」     評)はたらかぬ俺にはあるぞ閑の味
  老けて行く春を化粧の瓶の数  「書簡・詩歌集」     評)老けていく春をサプリの空の瓶
  どん底の人に不思議な顔の光沢(つや)「書簡・詩歌集」  評)去年、癌で亡くなった人の顔
 ▼ 評)は無かった方が良かったが、これを書かぬと味気ない。
    後で読み返した時の(いま・ここ)の自分のマーキングである。    ーつづく
・・・・・・・・・
2007年06月11日(月)
2260, ミスター・ドーナツの原価 ?       
           (っ´Ι`)っ { おはよう
 先日、新幹線で学生が二人話しているのが聞こえてきた。「ミスター・ドーナツでバイトをしているが、
原価が6~7円。手間がかかる分、荒利が大きい。」との二人の話。  そうすると原材料費が大よそ20分の1
ということになる。まあ、空気を食べているようなものである。 要はお客を如何に呼び込める!かである。
何でも同じだが。ミスター・ドーナツの繁華街店の入れ替わりが多いと聞いているが、新潟市長岡市
関しては粘り強く生き残っている。
 (字数制限のためカット 2011年6月11日)
・・・・・・・・
2006年06月11日(日)
1895, 閑話小題              おっ w(゚Д゚)w ハァョ?
 ー長岡スーパー戦争が面白そう!ー
倒産したスーパーツチダの旧店舗を新潟市を本拠を置くウオロクが引き継ぐことになったと、昨日の新聞に
載っていた。ウオロクもあまり芳しくない話を聞いていたが・・他に引き受けてが無かったのだろう。
関係者の話によると、「地元のスーパー原信と感情的になっているほど、商売上の叩きあいが凄い」
と聞いていた。
    (字数制限のためカット 2011年6月11日)
・・・・・
2005年06月11日(土)
1530, わたしの酒中日記ー6
 金沢ー4   ー1972年3月末日
大学時代の友人の島村君が訪ねてくる。年賀葉書に金沢にいると書いたためだ。何か金沢というと、東京では
憧れがあるようだ。会社の同期の桜井君が訪ねてきた。寮には社外の宿泊禁止規定があるが、こっそりと泊める。
これだけうるさい会社で、二回も規定違反をするのだからスリルがある。二人とも、寮に泊めてもらうつもりで
来ているから。夜に落ち合って香林坊で飲む。金沢の独特の雰囲気にのまれ、行く先々に興奮気味だった。
私の現状はこれ以下ない惨めさである!観光気分の立場とは全く違うのだ。それにしても、大学を卒業して
激しい環境にいたのを島村君と対比して実感する。丸善石油の総務にいて、ほとんど苦労していないみたいだ。
それに引き替え私は、あまりにも惨めな気持ちである。居酒屋にしてもスナックにしても、東京とは全く違う。
ただただ目を白黒している。直感的に金沢の異質な世界がわかるようだ。最後はホテルの最上階のスカイ
ラウンジに連れて行く。金沢の街が一望に見えるバーカウンターで、学生時代を懐かしむ。しかし懐かしむ
ほど、惨めな気分になる。サラリーマンは気楽で良いものだ。「私は独立を目指してここにいる」という
気持ちが、現在の自分を支えているだけだ。
・・・・・・・
2004年06月11日(金)
1165, 哲学についてー2
「私は何をすることができるか」の「形而上学」は事物の本質、
 存在の根本原理を思惟や直観によって研究する学問であるが、
アリストテレスにおいては存在一般を考察する存在論、また超越的なものを探究する学問。
ーカントは純粋理性からの認識論をめざした。
ヘーゲルは反弁証法的思考を形而上学的と呼んだ。
 我々の住む世界の特徴は、空間(三次元)と時間(一次元)から成り立っているが、
その「空間とは、時間とは、そもそも何ぞや」という疑問から、その問いに対する答えを探そうとする。
そこでは信仰にすりかえたり、権威にすりかえることは許されない。哲学といえば形而上学には二つの
基本課題がある。
・「存在するものは何か」
・「もし何かを知ることができるとしたら、それはどのようにして可能か」である。「存在論」と「認識論」。
この何が存在し、何を知ることができるか、という課題は哲学で探求される問題の大前提である。
  哲学を芸術と宗教と科学の違いから見てみると
 ー宗教は理より信仰がまずあり、宗教心を育てることに重きを置く。
 ー芸術は哲学とものごとの底流にある真実をもとめ、人間を理解しようとするが、
  その手段が絵画や音楽などの作品を通して直接的な感にうったえる。
 ー科学もしかりである。真実を追究するが、実験や観察によって答えが出せる問題に限られる。
  物質的な問題が主になる。
フォイエルバッハではないが「宗教にとっては神聖なるもののみが真実である。哲学にとっては真実なる
もののみが神聖である。」というが、芸術は、さしずめ作品そのものの感動が真実である。これらはけっして
相反するものではなくどれも宇宙や社会や人間の存在という不思議を深く理解しようとするものである。
また、直感と批判をどれもが必要としている。   ーつづく
・・・・・・・・・
2003年06月11日(水)
 798,「ありがとう」の言葉  ー1
長年生きてきてつくづく感じるのが「幸せ系の人」と「不幸系の人」がはっきり分かれていること。
家柄、結婚の相方との相性、本人の品性等いろいろの要素がある。 多くの人を見てきて、不幸系の人に
感謝の念が足りない人ー特に両親に対する感謝が少ない人ーが多いことに気づいた。両親に対する不信感ー
が本人を不幸にしていることに気がついてないのが、更に不幸を拡大している。その不信感が人間観になって
しまうからである。 夫婦間のトラブルー権力争いーが子供を傷つけ、子供が恨みで感謝を忘れてしまう
ことも起因している。人間には感謝はしないが感謝される事を求める傾向がある。
昨日図書館で何げなく借りてきた本を読んでいたら、あるページに目が釘つけになった。
 ー以下に書き写してみるー
 不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、涙が出てきます。
呪文のように言っておくと、その累計が2万5千回を越えたあたりで、突然涙がどっとあふれてくるという
ことが、多くの人にあるようです。その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均2時間ほど
で、とにかく止まらないのです。こんなに自分の体から涙が出てくるものと思うほど激しく流れ続けます。
この涙が出終わって、そこからまた続けて「ありがとう」と言おうとすると、今度は心底から感謝の念が
わいてきて、体中が温かい思いに満たされ、本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
 さらに、心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど心を込めて「ありがとう」を言い
続けると、なぜか突然「私」にとって奇蹟と思えることが起こるようになります。この話をあちこちでしていて、
「実際言ったが、そんな涙出てこない!」という質問を受けました。私はその人達に同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わなかったですね」と。その答えは
すべて「言ってました」でした。「それを言った瞬間、チ~ンという音がして『ありがとう』の回数がゼロ
になったのだと思いますよ」と答えています。・・・  ー続くー
・・・・・・・・
2002年06月11日(火)
 434,創業の勧め?
過去に創業を何回か繰り返してきた。好きで自分で望んだ事だから、そう苦ではなかった。しかしそう甘くも
なかった。その時は、のるか反るかの大勝負を賭けている。やはり脳は全開、見えない相手を考え尽くした
上で一つづつ判断していかなくてはならない。ゼロからの出発である。表面には出してないが、しかし色で
出ているだろうが、キーワードは「発狂」である。まったく存在してない自分の主張を、実際のカタチに創り
上げていく工程を踏んでいるのだから。部外者の人は狂っているという。そうでなくては実際新しい創造は
不可能だ。基本に忠実にゼロから一人で、一日一日孤独の行為の積み重ねである。その時、見えるのは人間の
浅ましさと嫌らしさである。これは自分の事でもある、人間の底である。
・人間はエゴであるー生命の発展はそれぞれのエゴイズムが原点である。
・それがどうしたというのかーその当然の行為を始めたのだ。・その積み重ねが事業の出発点である。
・馬鹿二代目が冷笑している、結構である。むしろそれが正しい事を証明してくれている。
・赤裸々な莚旗を立てた赤裸々な姿、それが創業である。
・事業に関していえば、まずは金そして金そして金・・・・
(字数制限のためカット 2012年6月11日)
・・・・・・・
2001年06月11日(月)
 「49」一期は夢 ただ狂え
 世の中はチロルにすぐる チロリチロリ
 何ともなやなう 何ともなやなう  浮世は風波の一葉よ
 何ともなやなう 何ともなやなう  人生70古代稀なリ
 ただ何事もかごとも  夢幻や水の泡
 笹の葉に置く露の間に あじきなの世や 夢幻や南無三宝
 燻む人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現がおして
 何しょうぞ くずんで 一期は夢よ ただ狂へ            ー 閑吟抄ー
▼470~480年位前、富士山の近くに庵を開いていた名も知らぬ男が古今集をまねた歌の一つ。
‘人生など一瞬でしかない。なら狂ったようにしたいことをして生きたいものだ’と言う内容である。
今年の年賀状にこの一節を載せたほど、感じろところがあった内容だ。500年前この無名の男の
人生‐過去に何があったのだろうか? 今500年の時空を越えて、激しく共感するのはなぜか!

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閑話小題 ~日々・是・好日

    * つれづれなるままに

 中高年の引籠りに関する事件と、高齢者の交通事故が続き、その詳細は、
週刊誌や月刊誌が、その背景と実情を報じている。各家庭でも、多かれ
少なかれ抱えている問題。久しぶりに出会う友人とは長男の話はタブー。

 今月末には大学同期の50周年記念の会があり、出席予定だが面白そうだ。
10年ごとに学校主催で行われているが、それは懐かしい。どちらかというと
ハッピーの部類の人が多いが、ハッピーだった人は、ハッピーのまま。
ある意味、年齢からみて、『ハッピーエンドの合同生前葬』。
 明るく、清潔感の比率が高い人が多い。それに引き換え…
『おやつは、やめられないとまらない♪. カルビーかっぱえびせん♪』
4分の1が亡くなり、4分の1が介護生活で、残る半数の何割が出席するか?

 アメリカと中国の貿易摩擦。何かしら生臭い臭いが。トランプ大統領
ロシア疑惑と、他に多々あるスキャンダルを隠すため、敢えて摩擦を起こす
算段がミエミエ。犯罪者もどきが、凄んだ上に堂々と政権運営をしている
のだから… それも白人中心を容認している国家。後世、歴史に残る愚民と
言われることを知ってか知らずか。文明の相剋の、いや人種の相克という
ところ。日本は、アメリカにとってアジアとユーラシア大陸への地政学
戦略的拠点。日本にとって、中国に対し、アメリカの後ろ盾が絶対必要条件。
 何とか台湾と、韓国が緩和地帯で残っているが、これも如何なることか。
 
 今年のセ・パ交流戦が面白いが、やはりパリーグ優位が否めない。
「投手に代わり打撃専門の野手を打順に組み入れるDH(指名打者)を取入れて
いるパリーグが有利であるのは当然のこと。この結果、代打専門の選手や、
投手は打撃練習の必要性がなくなった。 チームとしては、3,4,5番の
クリーンナップを、下位打線に打撃専門の打者を組み込むことで、二つの
ポイントの組入れ可能になった分、面白みが増える。ピッチャー、バッター
とも、よりスペシャリストとしての能力が求められる。何故、セ・リーグが、
取入れないのか実のところ分からない? 試合に強弱を持たせるからこそ、
おもしろいのか?

 たまたま、去年の同月・同日の、以下の「サイコパス」が考えさせられる。
メビウスの帯ではないが、そのまま、心底が繋がっているからこそ、恐ろしい。
怖いのが、精神薬を飲んでいる内に、『薬中』になった人たちのサイコパス
 もっと恐ろしいのが、持って生まれた、サイコパス! 誰にも沈殿して
いればこそ… また、最後が暗い話になってしまった。 
――――
6298,閑話小題 ~何で、サイコなの?
2018年06月11日(月)
   * 何で、あの連中がサイコなの、
 サイコを「悪口、陰口は、万引きより悪い」という説を、横スライドると分かり
やすい。万引きは「軽度の泥棒」。それが身近な知人、他人の財布に、そして家宅
侵入の泥棒に… そして強盗殺人に行きつく。
 陰口、噂好きの極端の人は、ごく身近に事例で多いので分かる。
80対20の法則からして、2割の人が8割の蔭口、内幕情報を言うが、そういう人を、
多くを誰しらずに、心の底で忌み嫌う。サイコをネット検索をすると「精神異常」
とある。上位2割に良いことの8割が、下位2割に悪いこと8割が集まるが、不幸系
は、悪口、噂話を生活のメインにしている。
亭主が愛人をつくってとか、出世コースより外れて、子供の出来が悪い…等々。
一般的には±(プラマイ)バランスが2対1だが、サイコは1対1か、それ以下が多い。
物理的にも、知的要素が下位ほどサイコになる。それは心の奥に静かに沈殿し、
他人の不幸を見ると、表立つ「変質的性格」。しかし、「サイコパス」は、
「猟奇性を秘めた異常犯罪(もしくはそれを行う者)」をいう。悪口、噂を妄信し、
行動に踏み出した重度の犯罪行為者をいう。だから心理学者は、軽度の傾向でも、
注意をすべしと… 問題は、生活環境、己の生き方から派生する。
『3:10:60:27の法則』の下位ほど、サイコの傾向が強いという説が、これ。
可能な限り、人を選び、ライフワークを貫く生き方が必要になる。
先日、見てきた『万引き家族』で、親父役の男が『俺が子供に教えられるのは、
万引きぐらいしかない!』と話す場面が、何とも哀しい。サイコ、サイコパス
言葉を使うことも注意しないければ。いじめっ子が、弱者を見つけて、攻撃する
それからして、マイナーの転嫁である。相手を選ぶこと。ライフワークを早々、
決めて貫くこと。あの人たちと距離をおくこと。
4C主義=チャンス、チェンジ、チャレンジ、コンペティションという
チェーン店の行動理念があるが、激流に身を挺して生きる生き方が正しいとは
いえないが、底に留まる場合、サイコ化する危険も多い。 4C主義こそ、
サイコパスへの道になりかねない。 サイコの言葉を知りえるかどうか。
その知識が、何気ない会話の中の危険を知らしめることになる。少なくとも、
8割の蔭口を業とする2割の人との距離を置くのが、その一歩。無知は罪である。
老いるとは、オバサン化するとは、サイコ化。別名、ゾンビ化、ヘドロ化する
ことである。

・・・・・・
5201,老年期の意味 
2015年06月11日(木)
   * 目標なく生きる重要性
 現役から、余生の時節に移行して、それまで見えていた社会の様相が、
全く違ってみえてきている。現役時代は目的的な強い束縛の中で日々を
過ごしてきた。何もしないことは良くないことと、信じて疑ってなかった。
現役の知人に、『何もすることがないのも、良いことだよ!』といった時に、
明らかに恐れと戸惑いが現れ出ていた。ただ、ブラブラと無目的的に日々を
暮らすと、日常の中の、景色が、違ってくる。それが御隠居の特権である。
 京大教授の山極寿一の、「老後の意味」の論が面白い。
≪ 人類の進化史の中で、老年期の延長は比較的新しい特質だと思う。
 ゴリラやチンパンジーなど人類に近い類人猿に比べると、人類は多産、
長い成長期、長い老年期という特徴をもっている。多産はおそらく古い時代
に獲得した形質だ。人類の祖先が安全で食物の豊富な熱帯雨林から出て、
肉食動物の多い草原へと足を踏み出した頃、幼児死亡率の増加に対処する
ために発達させたと考えられる。成長期の延長は脳の増大と関連がある。
ゴリラの3倍の脳を完成させるため、人間の子どもたちはまず脳の成長に
エネルギーを注ぎ、体の成長を後回しにするよう進化したのである。
脳が現代人並みに大きくなるのは約60万年前だから、その頃すでに多産と
長い成長期は定着していたに違いない。
しかし、遺跡に明確な高齢者の化石が登場するのは数万年前で、ずっと
最近のことだ。これは、体が不自由になっても生きられる環境が整わなかった
からだと思う。定住し余剰の食料をもち、何より老人をいたわる社会的感性が
発達しなければ、老人が生き残ることはできなかったであろう。
家畜や農産物の生産がその環境整備に重要な役割を果たしたことは疑いない。
ではなぜ、人類は老年期を延長させたのか。高齢者の登場は人類の生産力が
高まり、人口が急速に増えていく時代だ。人類はそれまで経験しなかった
新しい環境に進出し、あつれき人口の増加に伴った新しい組織や社会関係を
作り始めた。さまざまな軋礫や葛藤が生じ、思いもかけなかった事態が数多く
出現しただろう。それを乗り切るために、老人たちの存在が必要になった。
人類が言葉を獲得したのもこの時代だ。言葉によって過去の経験が生かされる
ようになったことが、老人の存在価値を高めたのだろう。
 しかし、老人たちは知識や経験を伝えるためだけにいるのではない。
年や壮年とは違う時間を生きる姿が、社会に大きなインパクトを与えることに
こそ大きな価値がある。人類の右肩上がりの経済成長は食料生産によって
始まったが、その明確な目的意識はときとして人類を追い詰める。
目標を立て、それを達成するために時間に沿って計画を組み、個人の時間を
犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。
目的が過剰になれば、命も時間も価値が下がる。その行き過ぎをとがめるために、
別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。老人たちはただ
存在することで、人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。
その意味が現代にこそ重要になっていると思う。≫
▼ 落語の『御隠居と与太郎』の問答が、正しく、これ。人生を消化した
 御隠居と、何もしらない与太郎の無目的の状態の二人が、目的的社会に
ついて笑い飛ばす。4年前に、それまでの自分の姿が急に面白くなり、腹の
底から笑ってしまった。それで憑物が落ちたのだろう、開き直れたようだ。
元もと、アウトサイダーを自認して、社会との関りを最小にしていたことも、
現在の日常を楽にさせてくれている。夕暮れには夕暮れ時の楽しみがある。
 ~以下のことは森のこと。後は、娑婆娑婆したり、しなかったり!

・・・・・・
4469, 余命半年 -5
2013年06月11日(火)
        「余命半年  満ち足りた人生の終わり方」大津 秀一著
  * 生物の最大寿命は生物の性成熟年齢×五
「生物の最大寿命は生物の性成熟年齢×五」説によると、人間は75歳。
その辺りが大きな目安になる。去年、知人が75歳で亡くなったが、70歳
前後から急激に衰えていった。特に男は75歳、女性は80歳辺り。成るほど
後期高齢者の区切りである。この辺の健康状態で、あと何年かが決まって
くるようだ。 ーその辺りからー
≪ 川上嘉明氏の著書『自然死を創る終末期ケア』を読んで、私は生物の生命
 過程の事を知った。生物には成長期・生殖期・後生殖期の三つの時期がある
という。そして人間は後生殖期が長いのが特徴であるとのことだ。なるほどと。
確かに昆虫など、生殖期を終えればすぐに死んでしまう種の数は多い。ほ乳類
の場合は、最大寿命と性成熟年齢が性の相関関係にあるとされ、生物の最大寿命
は生物の性成熟年齢×五であるらしい。最大寿命と言うのは、限界の寿命である。
人ならば性成熟年齢の十五歳×五の七十五歳が本来限界となるはずだ。
しかし、周囲を見回せば明らかなように、今や限界超えが当たり前。
図をみると、実際にヒトだけが逸脱して限界を超えてしまった。人類がなぜ
後生殖期が終わったのちに、これほどまでに生きられるようになったのか。 
それは「医療」の発展ゆえである。ついぞ五十年くらい前までは「人生五十年」
の世界であった。しかし、人類にとってかなりの強敵であった感染症に対して、
西洋医学が優位に立つと、寿命はぐっと延びるようになった。もちろん栄養状態
の改善も影響しているだろう。あるいは衛生環境の改善等も。体格が世代を重ねる
ごとに良くなっていることは、清潔で栄養に満ちた生活が提供されている
一つの証明でもあると考えられる。≫
▼ ちなみに類人猿のチンパンジーは50歳、ゴリラは40歳後半で、50年前
 までは、人間と変わらなかった。病気を治す術を得た分、長生きが出来るように
なった。その最大寿命の75歳に近づいてきた。70を過ぎると、摂生してきた
人と、不摂生してきた差が鮮明になる。 私も酒の飲み過ぎもあり、その辺りが
大きな関門だろう。 ところで、介護を受けたり病気で寝たきりになったりせず、
自立して健康に生活できる期間を示す「 健康寿命」を2010年に男性70・4歳
(10年の平均寿命79・5歳)、女性73・6歳(同86・3歳)と厚生省が
初めて算出し、発表した。大体10年間が、介護か寝たきりなる。 
あと3年で平均で達するので、現在、介護を受けても不思議でない。そうすると、
まだ元気な現在、好きなことが出来る時間的余裕が少ないことになる。
10年間の介護を考えると、末期ガンになってもジタバタしないで、悄然と
従うのが良いのかもしれない。そうこう考えると、老いの現実は厳しい!
介護、寝たきりまで平均3年、死まで12年? 男が平均70歳で、寝たきりか
介護? 周囲を見渡しても、そうだろうか? 自分を考えると3~4年先に倒れ、
その2~3年先とすると不思議でない。とすると二年前の会社整理は正解? 
ものは考えよう。

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5931,閑話小題 ~狂ったドン様と、耄碌した泡沫候補 
2017年06月11日(日)
  * 耄碌した泡沫大統領と、狂ったドン様
 トランプ米国大統領は、現代版の裸の王様そのもの。本人も勝利をすると
思ってもいなかったため、白人至上主義や孤立主義を掲げ、ロシアの援護射撃を
要請するなど、やりたい放題。ところが間違って当選したのだからことは重大。
耄碌した泡沫候補は政治的経験もなく、適応が困難。 出来ることは朝鮮戦争
仕掛けることぐらい。泡沫も、老い先少ないため、後は野となれ山となれ。
危ない要素が、あまりに大である。その隙に血迷ったドン様が、核弾頭ミサイル
の開発に専念。国際社会に対し、脅しをかけているのが現状。
 北の核ミサイル潰しなら、東洋人の100,200万人の犠牲も厭わないと…? 
一番困るのは、矛先を向けられる東京とソウル市民? 大陸間核ミサイルが
完成する前の現在が最後のチャンスと、総攻撃の可能性が出てきた。叔父と
兄を殺し、目障りな側近を粛清し、得意満面な血迷ったドン様。日・米・韓と、
中国、ロシアとケッタイな役者が勢揃い。ロシアが、陰湿の手段で、朝鮮戦争
を仕掛け、その隙に、勢力拡大を目論むには最適な情勢になっている。ところで、
トランプが4年の任期を全うできる側の賭けのオッズは2倍。できない方は1・4倍。
 先週のシネマは、数年前にあったテロを扱った <パトリオット・ディ>。
犯人の二人の兄弟の目線もあって、いつの間にか引き込まれていった。
直ぐに思い立ったのが、狂ったドン様、自分が何をしているのか全く自覚がない
のだろう。とはいえ、数百万の生命がかかっているだけに、下手に手を出せない
が、そのまま放っておくわけもいかず、思案のしどころ。欧州のテロ騒ぎに
引き続き、今度は、朝鮮半島と、日本の本土にも飛び火が? 
 成るほど、韓国人の7割が移住希望というのも理解できる。
父親の金正日ドン様、『男はつらいよ』のファンで知られていた。

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5566,フーテンの寅の、本質と家族の幸せとは ~⑤
2016年06月11日(土)
    * 『男はつらいよ  寅次郎ハイビスカスの花』
 少し足らない流しのテキヤの映画を取上げること自体、少し憚るが、
人間の本質が、その足らなさから現われ出ているから、共感するのだろう。
男はつらいよ』シリーズで最も良かったのは、リリーの三部作の完結篇。
TVの再放送で5~6回以上は観ただろうか。 他に、印象に残ったのが、
石田あゆみマドンナの『男(赤)はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』。29作目。
これもシリーズで屈指の名作。片岡仁左衛門柄本明の役者陣も見事である。
  ~『ハイビスカスの花』を検索すると~
≪『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』は、1980年8月2日に公開された。
 男はつらいよシリーズの第25作目。リリー三部作の完結篇。マドンナは
4度目の出演となる松岡リリー役の浅丘ルリ子。観客動員数は206万3千人。
尚、2006年3月、シリーズ全作品を放映したNHK-BS2が募集した人気投票で、
視聴者から「後半24作品中のベスト1」に選出された。
  ~あらすじ~
【博が街でリリーを見かける。リリーは寅次郎に逢いたいと博に告げる。
とらやで、寅次郎の噂をしていると、偶然寅次郎から電話があり、リリーが
逢いたがっていると伝えると、寅次郎は興味を見せない素振り。しばらくして、
寅次郎は柴又に帰ってくる。しかし間の悪いことに、とらや一行は水元公園
ピクニックへ出掛ける所であった。慌てて、荷物を隠し体裁を取ろうとする
さくら達。その事で機嫌を損ねた寅次郎は、さくら達と大喧嘩をする。
出て行こうとする寅次郎の下へ、手紙が届く。手紙の内容は、リリーが沖縄で
病気で倒れたとの事で、寅次郎はあわてて沖縄に向かおうとする。皆で相談
しあった結果、飛行機で行く事に決まるが、寅次郎は断固拒否する。
博に説得されしぶしぶ了解するが、翌日飛行場で柱にしがみつき駄々をこねる。
そこへ通りかかったスチュワーデスに連れられ搭乗し、なんとか沖縄へ。
寅次郎と再会したリリーは涙を流し喜ぶ。次第に、彼女の病気はよくなり、
漁師町で一緒に生活を始める。しかし、その一方で地元の娘と浮かれる寅次郎。
ある日、ちょっとしたことで二人は大喧嘩。翌日リリーは沖縄を去ってしまう。
寅次郎は慌てて身支度を整え、手近な船に乗り、東京へ戻ろうとする。
島伝いに、時に行き倒れになりながらも、なんとか柴又にたどり着いた寅次郎。
そこで、偶然リリーに再会し、おおいに喜び合うのであった。さくらは、
リリーに寅次郎と結婚して欲しいと漏らし、寅次郎も「俺と所帯を持つか」と
発言するが、リリーは冗談として聞き流す。そうして、柴又駅で二人は悲しく
別れるのであった。好き合いながらも、お互いのプライドや体裁で一緒に
なれないリリーと寅次郎であった。】 ≫
▼ 考えてみれば、風に吹かれるまま、自由気ままでいられたのは、時代背景
が高度成長期にあったから。 その日暮しの安宿を泊まり歩く、ホームレスの
テキヤの寅と、フリーの売れない歌手リリーの境遇は似ている。
以前、経営していたホテルの宿泊客に、全国を股にかけた、流しのホテトル嬢
が何人かいた。 夕刻に出掛け、朝帰りのため、聞き込みの刑事に怪しまれない
よう、自分の職業の申告を最初からする。 外見からして、ごく普通の女性。
 寅と、リリーの明日をも知らない危うさから生まれるドラマが、共感を呼ぶ。
最初は、1960年代半ばの、鶴田浩二高倉健池部良らを主役脇役に据えた
「ヤクザ映画」のパロディとして企画された映画が、シリーズ終了後、20年
も経つのに、今でも、再放送されるのは、現在、失われつつある日本の家族の
原型が、そこにあるため。TV欄を見ながら、『また寅か、されど寅ですか~』
~これも偶然、寅さんの生き様、「目標なく生きる重要性」が書かれている~
寅の生き様こそ、人間のあるべき姿かもしれない。
 「アホ違うねん、パーなんや」  で、「パーは、どっちがねん」

つれづれに

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 季節の変わり目のためか、何か眠気が襲ってくる。

 最近、何かしら歳をとった!という感が強くなってきた。
 これも仕方がないことか! 同年代の人たちをみると、
 歳相応に見えるが、自分となると自覚が全くない。

 今朝の自転車散歩。今にも降りそうだったので、止めた。







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5930,閑話小題 ~褒められることと、貶されること
2017年06月10日(土)
    * 褒められること、貶されること
 人とは貶されたことは直ぐに忘れるが、褒められることは、いつまでも
憶えているもの。若いうちは逆だったが… これは生きていく上の知恵で、
褒められたことを何度も思い返し、嫌なことは隅に追いやるためである。
だからこそ、人は生きていけるのだが。
 作家の渡辺淳一が、「女性に持てたいなら、心を込めずに褒めなさい」と
述べていたが、正に、女心のアヤをついている。何気なく、思いのままフッ
と褒めた言葉が、いつまでも心に残るもの。貶すも、褒めるのも、たった一言
で済むのならば褒めるが勝ちである。女性の多い職場に長くいて感じることは、
思いの外、美人は持てないということ。そしてナルシストのこと。視線は感じ
ても、直(じか)に、褒められる機会が少なく、褒め慣れていないのである。 
だから、下心を?持たないで、さりげなく褒められるのに弱い。逆に貶される
ことに、人は、意外と強いのである。 何故に、こうなるのだろう? 
褒められると、全人格まで肯定された錯覚に陥るからである。営業専門職は、
「褒め殺し戦術」を身に着けることが第一歩とあいなる。一番、巧妙なのが、
「教えを乞う」のである。そして、教え頂いたことに過剰反応を示すのだ。
有能な営業マンは、それ故に、相手以上に、相手の知識、ノウハウを身に
着けていき、芸術的技術となっている。 当然、女性にも向けられるが、逆に
警戒されて門前払いされるケースが多いようだ。
 20、30歳代の頃、「三度褒め」を若い美人に限って、心がけていた。
より効果があるのは、内語として繰返し思っている方が、より相手に伝わる? 
で、持てていたかといえば… そうでもないのは如何なることか。
この「三度褒め」、全ての人に実施していたら、人生、変わっていたのだろう。 

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5565,閑話小題 ~にほん縦断こころ旅 ~③
2016年06月10日(金)
  * 世の中にはこんなに面白い人たちがいるんだ!  火野正平
 この番組で立寄る道路沿いの食堂の場面がよい。家内は、その場面になると、
台所からやってくる。食堂の御上さんの、さり気ない人柄に味わいが滲み出る。
番組は、この3月で六年目。去年の秋に通算五百日を突破したから、一年で
百日は自転車に乗っている。 私はまる7年間、一年230日間として、
1600日、一日、12キロMとして、大よそ、1万7千キロになる。ただし、
私の場合は、同じ道を一周して帰ってくる散歩かわりのポタリング。一度、
雨道でスリップをして地面に叩きつけられたことがあるが、転倒は、一度だけ。 
  ~後半からコピー
【 この番組のいいところは、手紙に書かれている風景が見えなくても、
それで終わりにすること。例えばタ焼けって、天気が悪かったら見えないけど、
それはそれ。「見えないからごめん」って。静岡に二週間いても富士山が一回
も見えなかったり、富山に行っても全然立山が顔出さなかったり。
あとは「心の目」で見てください、と。
 よく「人との触れ合いが面白い」と言われるけど、そこまで意識はない。
番組だから地元の人に声をかけているだけで。もちろんべっぴんは好きだよ。
遠くにいても、可愛いと直ぐわかる。後で番組を見直しても、こんなきれいな
人をよう見つけたなと思うことも多い。でもそれ以上に「世の中にはこんなに
面白い人たちがいるんだ」と気がついた。いい子、可愛いおばちゃん、おもろい
爺ちゃん。そういった人たちに、俺は嫌われていなかった、というのも驚いた。
自分でもあまり良いイメージはないだろうなと思っていたから。
これは発見やった。休みのときも、街でよう声かけられるもの。
 五年もやっていると、体がしんどくなることもある。前期高齢者だから。
基本的には日曜に集合して、月曜から木曜まで走って、金・土が休み。
監督もカメラマンも音声もローテーションで交替していくけど、俺だけは
出ずっぱり。だからギャラが一番高いんだと思うけどさ。また冬は放送が
なくて三カ月ぐらい休むから、春は旅に出て最初の一、二週はしんどい。
「今回は大丈夫か?」ってなるけど、三、四週とやるうちに「行けるん違うか」
ってなる。体が順応できるようになっているんだね。これまでトレーニングも、
体調管理なんてしたこともない。検査も行ったことないし。きっと管理なんか
したちストレスがかかって逆におかしなると思うね。野放しで行けるところ
まで行きたい。そうしたらこの前テレビに養老孟司さんが出ていて、78歳で
タバコは吸うし、酒も飲むし、検査も絶対に行かないって言っていた。
解剖医なのに(笑)。それを見て新しい目標が出来たなと思ったよ。最後の最後に
密かに行きたいと考えている自分の「こころの風景」はある。カウァイ島なんだ
けど、本当に涙が出てくるような風景なんだ。いつかご褒美で行かせてくれへん
かなと思っているけど、ど、うやろう。『にっぽん縦断』やから難しいかもな。】
▼ 前期高齢者の火野は、雨天の時は、結構しんどそうだ。通りすがりの人や、
 乗用車から、『いつも、見てますよ』の声が、視聴者全員の声を代弁する。
7年間の毎朝のミニサイクリングで、平日の信濃川の長岡大橋と大手大橋を、
iPodで音楽を聴きながら、鳥の声と、爽やかな空気と陽光を受け走っていると、
『早起きと、一寸した工夫で、毎日、夢のような快適な時間を過ごせるのに、
何故、誰も気づかないのだろう?』と思うこと度々。この閉ざされた時空の中
では、毎朝、毒出しをしないと、精神のバランスが保てないこともあるが。